わたくしを知る人々は直ぐ思い浮かべるでしょう。わたくしは本来思慮に欠け、猪突猛進的な性格なのだ。そのわたくしがこのところ、深い熟慮にを要する決断を求められている。
他でもない、[終末期近いと想われる現在、独り住まいをいつまで維持するか?維持し得るか?且つ維持するべきか?]の難題である。
幸運と深謝すべきであろう。新治験薬のおかげでわたくしの癌は今抑えられているらしい。けれども昨秋に転移が発見されてからの体力の衰えは急傾斜だった。余命半年を告げられていた数ヶ月間、例の猪突猛進でわたくしは身辺整理にひたすら励んだものだった。名は挙げないけれど、友とも思うアトリエ・サガンの年の離れた講師や会員数人の方のご助力があってこそ成し得た終活作業であった。
たしか3ヶ月ほどの間で終えたあの作業をいまも深く深く感謝している。あの仕事で得た安らぎは大きい。
近ごろしきりに思い返される事柄がある。もう20年ほど前のこと。50代はじめに未亡人となって以来大阪郊外の広い一軒家で母と二人で過ごしていた姉に、不安・不調が見受けられるようになっていた。
きっかけは、母95才、姉69才のお正月、末弟の招待で4人姉弟一族が総勢で参加した故郷(大連)へのミレニアム迎春旅行であった。母は無事参加を終えたが、帰国直後、持ち帰った流感により入院と相成った。退院して帰宅できるまでに3ヶ月を要し、それを境に母にはじめて大きな老いの衰えが顕れたのであった。
以来紆余曲折はあったが、わたくしは夫の快諾を得て[夫亡きあとそれを思う都度、夫への感謝と甘えていた自らの心なさを悔い詫びている]毎月わたくしは4〜5日間の(大阪詣で)をしていた。母が100歳の齢を迎える半年ほど前のこと、「この広い家と庭を維持するのはお姉さんには無理になってきましたよ」と母に話した。姉のマンションへの転居計画を話したのであった。母からの反対は無く、無事に同意を得ることができた。
倒れる95才まで、毎日のように庭に出ていた母であった。角地だったから、道行く人によく褒められたりもする小さな池のある姉の家の庭。母の健康は、95才まで続けていた庭の手入れによって保たれていたのだと今も思う。
2005年、姉はマンション購入を決め、契約金数百万円を支払った。以後わたくし達は母とともに、当時まだ少なかった公営、私営の老人施設を見学して廻った。その中から民間経営の1つを選び、契約後半年の間毎月3泊のお泊まり体験をわたくしは母とともにしたのであった。母99才の年であった。
母がその施設に入居してから後は、わたくしの(大阪詣で)は毎月の行事となった。施設から姉宅へ母を連れ帰り2〜3泊。その後施設に連れて戻り、共に2〜3泊。その行事は、夫が逝った折の2ヶ月の休みを除けば、母が逝った2011年早春まで続いた。
実はその間に大きな出来事があった。姉が購入したマンションがいざ完成したとき、当の姉が入居を躊躇ったのである。40年間親しんだ家と環境を捨てがたく悩んでいた。この時もわたくしは決断の後押しをした。
「転居は取り止めましょう。庭はもっと専門家に任せましょう。築後40年ちかい家は、住みやすく素敵に思い切ったリフォームをしましょう」と。
姉は不器用でまっすぐな生き方しか出来ない人である。老い弱った母の目途が立った時、自分らしく過ごせる場としてやはりわが家を選びたくなったのだが、施設へ移った母への罪悪感との間で苦悩しているのが読み取れた。姉の近隣とのお付き合い、日常生活をほぼ知っていたわたくしには、この時に至っての姉のためらいが察知され、手助けをしたかったのだ。
解約による数百万円の損失!これは姉のように豊かでないわたくしにとって、大変な金額に思われた!でもわたくしの強い声援を得て姉は、マンション契約を解消した。
「あの数百万円は、儀式として必要なお金だったと思いますよ」とわたくしは言い、姉も心定まったようであった。その後わたくしは、姉宅の思い切ったリフォームに大活躍したものであった。
それから約10年の後、姉自身のための老人施設えらびの時期が到来した。数ヶ月間共に十数カ所の見学・体験等を経て選んだのが、姉のいまの入居施設である。
思いよらぬ、否、思わなかったのが不遜であった認知症を姉は患い、コロナ下の環境激変に大きく影響され、急激に思考が衰えた。いまは入居施設の中のケア病棟で日常をお世話になっている。姉のような患者の見守りをする施設の方々のお仕事は如何に大変なことか?推察に難くはない。
この夏に同じ施設に入居した弟とともに、この厳しい環境下にある施設の迅速、丁寧な対応に大きな日々のやすらぎを頂いている。仕事とは言え、仕事だからこそ、如何に大変な見守りを姉は受けている事であろう!日々哀しみとともに、その幸運にも感謝しつつ姉を想うのである。
施設のスタッフから毎月届く写真入り近状報告の便り。その文と姉の無心な姿にわたくしは何時も涙してしまう。ありがとうございます。
長い回想となってしまった。役に立ちたくて、無計画な直感的判断に頼り母や姉の老後を仕切ってしまっていたわたくし。母は、尊厳死協会開設時に入会していることを伝えていた施設の医師の指導のもと、姉とわたくし、スタッフの数人に見守られ老衰により、自室のベッドで穏やに106才の生を終えたのであった。悲しみとともに、大いなる安堵をも受けた記憶は奥深い。
けれども又、母亡き後に見つけた書き留められたノートや紙片。それによりわたくし達は施設入居後の悲しさ、淋しさに暮れていた母の心情をあらためて知ったのでもあった。忘れ得ぬ痛みである。今も伴う痛みである。
そしてこれも母亡き後、ご近所の親しくしていた方に言われた事柄。母の老人施設を検討するわたくし達を「娘達が私の嫁入り先を探している」と、母がとジョークにしていたとのこと、、、、。
回想、老いの繰り言は尽きずこんな事では終活はなかなか進まない。進み得ない。でもこれも決断の一助とはなるようだ。
わたくしの場合、すべて自身の選択による結果であるとの覚悟さえ持てば良いのだから!