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2020/12月  キートルーダ事件簿


  20年ほどにもなるかしら?解いた母の袋帯をクリーニングして取り置いていた。細緻に織られた御所どき模様の大名行列。年月で金糸銀糸もすっかり落ち着き、全く華やかさのない渋く美しい1枚の布片として戸棚に収まり続けられていた。

 柄を巧く配置して改まった折に姉と共用できるジャケットを作ろうかしら?当初そう思っていた。正装的装いを要する結婚式、あるいはお正月等華やかな集いとかに??

 けれど苦心して作っても、カジュアル化したこの時代、使用度は極めて限られているであろう。そのまんま今に至った、、、、。

 その1本の古い絹布にわたくしは思いを馳せてしまう。

 最大限荷なった荷物で、戦後2年目の引き揚げ者だった我が家族であった。あの帯はその中になかった筈だ。当時の母の年齢にしては色合いも地味にすぎる。姉とわたくしのために売り残し、持ち帰った少ない着物類はほぼ農家でお米に変えてもらって食べいた実情も見ていた。

 当分続いた困窮生活の中で、多分伯母か誰かから頂いたのであろうと推測される。そして母は子供たちや孫の結婚式にこれを締めたに違いない!わたくしの感慨は一人相撲で遡り行くのである。

 昨日、その帯をクッションカバーに仕立てることを決め、裁断した。

 6月の受術以降、わたくしは日常最も長時間を過ごすリビング定位置の椅子に、枕を利用しての背もたれ用クッションを愛用している。

 弱った体は、椅子やクッションの良し悪しに実に敏感に反応する。そして首元まで支えられる大きな背あてクッション。これにどれほど労われ、守られることか!!それを実感として知ったのは自身が病んでからであった、、、、、。

 『人生100年時代と言われる現代、その先駆者として生きるわたくし達老人。知らざる世界を老いの身で知見し、開拓しなくてはならない。これはなかなかに大変なこと。老人もまた荒野を行くのだ』と、難題に出逢う都度、弟と苦笑しつつ励まし合っているのが実情(笑)

 ちょっとした決断で、上等なクッションカバーを作るに至った経過を皆さまにここで告白いたしましょう。

 実はわたくし、6月6日の舌癌手術後好調に治癒していたが、8月末の診察日に扁桃腺への転移をDrから知らされていた。敬愛する担当Drは更なる大手術・及び化学治療をわたくしが望まぬであろうとの予想もすでに持たれていたと思う。

 長年の尊厳死協会員であるわたくしの意思は承知の上で、新治験薬(キートルーダ)点滴を3週間に1度受ける道があることが示された。1年前からの治験実施なので、効果・副作用の恐れ等も未だ治験中であることにつき、充分な説明も頂いた。

 何も受けずこのままを受け入れる場合、余命は半年との宣告も告げられていた。その時息子も同席していた。彼の勧めとわたくしの判断で(3週間に1度のキートルーダ点滴)を受けることに同意したのであった。

 むろん副作用が出るか否かは不明、わたくしと言えば正直、それに期待も恐怖もあまり感じていなかったのである。(来るべき時が来た)との思いも強かった。

 敬愛するDrには当初から告白していた。不遜はわきまえつつ(死を受け入れる場合、痛みや苦痛はなるべく避けさせて下さい)その考えはお腹の底に巣食っている。

 これも不遜であるが、生きる日々の中に悦びや楽しみを自ら見出し得ず、あるいは行動して自ら楽しめる力が失われた場合、出来れば虚しく辛いその刻は、短くあれ! 1塵1滴の存在として宙に戻りたい。との願望が心底にあったのである。

 あれからキートルーダ効果のめどが立つと言われた4回の点滴を受けた。当日の諸検査等、それはひと仕事なのでお願いして3泊入院して受けてきた。副作用は感じなかったものだ。

 先週、息子と共にDrの所見を伺うため東大に赴いた。結果は、副作用も認められず、両リンパ節のガンは小さくなってきている由。つまり効いているとの判定であった。とても効いているとの言葉も1度受けた。

 むろん、キートルーダ点滴は続けられることになった。息子も弟もとても喜んでいる。確かに、わたくしの体も秋口から11月なかばの頃に比べると日常の疲労感が薄れているのであった。

 姉の認知症が進み錯乱した姉は現在入院している。コロナの余波、その影響はやはり大きな原因だと精神科医でもある弟と悲しく語り合っている。姉と電話の会話もできぬ今、術もないだけにこの辛さはわたくしを苦しませる。

 それもあって、それがあったから、自身ではキートルーダにあまり求めてはいなかった。世界が、落ち着かぬ不安な時の中にある今の世だ。その中に紛れて終えるのも良し、と思うようになっていたのである。

 子供時代から、短距離走はいつも選手になり、トップを切ったりしていたが、長距離は1度として選ばれることもなかった。長期戦、わたくしは苦手なのだ。引けてしまうものがある。どうしても、、、、

 けれど、これは朗報として早速知らせるべきであろう。再発や厳しい余命告知を知らせていた親しい友と、息子世代の友とも思う、サガンの2人の講師たちへ。

 コロナ禍の中、みなさん大きな悩みを抱えて居られるに違いない。けれどみんな喜びの声を上げてくださった。それはわたくしの喜びともなる。「あー キートルーダは効いとるんだー」 お正月、わたくしは上等なクッションを使い初めして気分を引き立てよう!

 自他共に困難だったこの1年。面倒くさがりで、且つ老い衰えたわたくしが少し気持ちを引き締め、時には楽しみつつ続けてきた当欄でした。読んでくださった皆さまに深い感謝を捧げます。

 

2020/11月  装いからの連想、回想


  通院を含め、2度ほど街に出る機会があった。その折の1度は、かの渋谷駅前交差点を渡ったものである。その日人々の装いが、何かしらとても画一的になっているように感じられた。

 装いは粧いでもあり、潤いでもある。さらに自己主張、自己表現、構えでもあると思う。コロナ禍の元、統率され萎縮している民衆を見ているような寂しさをも覚えた。

 でも今のわたくしがそんな批判的な言葉を発する資格など持たぬことも充分に自覚している。長く自身の服の多くはほぼ手作り、好みのセンス優先で過ごしてきた。物資不足な戦後の高校時代も1人制服外の服(自作の)を着て登校したりもしたものであった。不思議とお咎めはなかったが、、、、。

 そして元来下着を含め、締め付けられる感じには弱かった。老い、体力も衰えた現在、体はますます我が儘に解放感を求めてくる。もっぱら大きなLサイズを買い求めてきたヒートテック下着類からも解放されたいと思ったりするのである。アァ。

 告白する。近頃のわたくしなりの終活作業の中で、処分すべき母の下着、夫のシャツ等が、心身ともに緩やかに寄り添って纏える。家の中での働き着に最適なのだ。
処分する前に活用しようと、近頃愛用しているのが恥ずかしい実情だ。

 そして亡き人々との対話が回想の中から今へと続いて行く。一方的だけれど心通わせ、今のわたくしとの間で、新しいものが育まれても行くのである。

 亡き人に限らず、人との心に残る会話は決して後ろ向きになるのみのものではないと思う。当時とは変化したわたくしが膨らみ、慰められ、心豊かにさせられもするのだ。

 話題が戻るけれど、現在の街角での画一的な装いから思い出された戦中でのこと。
当時、わたくしの故郷である旧満州大連でも成人男性は、カーキ色で詰め襟の軍服に似た「国民服」と称す服を着ていた。非常時下、制服的存在であったのだろう。だが父はそれを着用せず、変わらぬスーツ姿で通していた。

 多分1943年半ば頃のある日、家族ぐるみで親しくしていた隣家の隣組長が我が家を訪れた。「服装を改め、政府の供出命令に応じていなかった刀剣類を供出するように」心配して、密かに提言忠告に来られたのは確かだ。

 その後父は、なじみのお店でイギリス製サージ生地の国民服を仕立てた。人並みにズボンにゲートルを巻いてもいた。刀も提出した。でもある日海水浴から帰宅したわたくしは、勝手口に回る塀の途中で床下からの物音を聞いた。風穴を覗き込み、床下の土を掘る父の姿を見てしまったのである。

 先祖伝来、備前の名刀と称していたあの大・中・小刀を埋めたのである。それに違いなかった。それはわたくしの秘密ともなった。

 以後、大連を制したロシア・中国両軍の厳しい布告にも応じることは無かった。

 1947年2月半ばの引き揚げ時。我が家にはすでにずいぶん前から中国軍の『林何とか局長宅』と大きな木の表札が玄関に付けられていた。

 家を出てから大連港を出港するまで5~6日は掛かったものだ。床下に埋めた刀がその間に発見されたら?

 あの刀の存在は少女だったわたくしをどれほどの不安に陥れたことであろう。

 老いの回想は巡り、答えの出ない父への問いかけも勝手な想像で巡り交わされる。

 それにしても装いは生き物だ。生きる構え、生きる力であると思える。いかに蟄居中とは言えわたくし、もう少し構わなくては!

 

2020/10月 家族そして友たち(家篭りの中で)


 コロナ禍のために10か月近く逢えなかった姉の許へ行ってきた。感染防止のため出入り禁止になっていた施設の支配人に許可を得るため、PCR検査を受けた上での4泊。(ちなみに私費の場合検査費はで3万円でした)
帰宅後の10日間ほどは生も根も尽き果てたように過ごしてしまった。

 認知症も進んでいる姉が、隠し置いていた遺言状をはじめ大切な品々を散失させてはいないか?それを確認収集し、弟と相談せねばならない。そして姉の現状確認、これからへの対策等々。

 本来、外来者は受け入れてもらえぬところを、施設支配人の暖かなご配慮を頂き、できるだけのことを受け入れてくださった。レストランと相談の上、わたくしの食事も姉の部屋まで配膳していただいたものである。

 すでに来春の入居手続きを済ませている弟も、予定を合わせて来てくれた。お正月以来姉弟の顔が揃う嬉しさ。かけがいのない大切さ。

 姉はヘルパーさんのおかげで(以前にも記したが、仕事に心が込もっている。姉への温かな愛、思いやりを感じる。わたくし達もどれほど守られ、救われていることでしょう)体は姉弟で1番元気であろうと弟と話しあった。

 姉の現在とこれからについては、生活相談主任やケアマネジャーとの面談時間が設けられた。ご協力、助言を得て、今後の見通しについて多くの安堵感も得ることができたように思う。

 行政書士・弁護士との面談時間も持て、共に終活経済問題に疎い姉弟にとっては大きな参考を得たものだった。
大切な印鑑はとうとう見つからなかったけれど、、、、。

 苦労した訪問の成果は大きかったと考えられるし、多忙だったけれど姉と弟の顔を毎日見た。話した。食事した。笑い合った。この時勢の下、大きな、大きな感謝あるのみである。

 晩夏以来わたくしは、自身の体も不安定な独り住いの中、自分で要支援申請等の手続き等を進めて来ていた。気分も体も萎えていたのが事実であった。

 だからずっと家にこもっていた。その間こころを潤し、安らがせたのは、やはりわたくしに取ってすべてのアートであったように思う。思えば兵庫の姉の施設から家に帰り、好きな絵や調度に囲まれたリビングの椅子に腰掛けた夜。その安らぎはとても大きかった。

 好きなCDをかけ、ボーッと数本タバコを吸い、夫が昔作った梅酒を氷割りにして時を過ごした。そして家族へ(亡き人を含めて)の愛と思慕の思いの間を漂った。穏やかであった。

 以来、整理・整頓が生来ダメで普段だらしなく過ごしてきたわたくし、兼ねて考えていた終活実行にこころ定めることにした。集まってしまった、わたくしにとっての美しく好ましい品を喜んでくださる友に、親族に受け取ってもらえたら?受けていただきたいなー、、、、。
たった一人のわが子は今は独り身だし。

 ちなみに息子が15年ほどを共に過ごしたAさん。今もわたくしは敬し、愛しみ、心に詫びてもいる。別れて10数年。今では息子と彼女は、お互い最もこころ許し合う友であるらしい。それはわたくしの何よりの喜びでもある。

 遅々として進まぬ終活作業を乱雑な家の中で進めている。先に記したように、生来整理下手なので事はなかなか進まない。

 けれどわたくしは改めて知り、感謝するのであった。わが悪運の男神はいかに良き家族、親族、友を巡り逢わせてくれていたことでしょう!

 良きかな。わが人生!!



2020/9月 宙・そらを見つつ


 やっと涼風がそよぎ、ベランダから望む夕べの西空は茜たなびいている。
水やりの手が思わず止まり、長かった猛暑からも開放され、しばらく立ち尽くして空を見る。
世界が先の見えぬ事態にあることをも忘れ(世はすべてこともなし)とも思えるこの美しい空を楽しもう。

 長くずーっと思ってた。感じていた。人は未だ解明され得ぬこの宇宙(そら)の中に生まれた1塵、1滴の存在に過ぎないのだ。終えるときも又、、、、と。

 けれど全く対照的な考えも持っていた。その小さな存在こそ自身にとっては時に全宇宙であり、生き方の中心ともなるのだ。この大きな矛盾を意識しつつ、少しでも開放的に生きてゆこうと、、、、。

 わが悪運の男神に守られてか、こんなにも不遜に過ごしてきたに関わらずこれまでのわたくしはラッキーだった。本当に!

 ところで、先日映画(ルチアーノ・パヴァロッティ)と(マイルス・デイヴィス)を続けて観た。2人の思いがけぬ共通点を知り、それは気持ちの良い発見だった。同じ1塵、1滴の存在とは言え、宇宙にきらめく星であった天才の両名がともに晩年(今、現在)の(音声)に惹かれ激しく挑戦していたのであった。

 涼風のゆく空は美しく拡がり、CDで聞くパヴァロッティとマイルス・デイヴィスも心に沿ってくる!



2020/8月 盛夏、窓辺で


 終戦後2年目1947年春、わたくしは初めて日本の地を踏んだ。生まれ育ちは旧満州大連であった。あの頃がこの夏はしきりに思い返されるのである。

 当時やその後の日本、近隣周辺の世相、我が家の問題。少女の目が直視したものを、どこかに置き忘れ、忘れようとしていた。6日夜、NHKスペシャルで原爆投下「全記録」を見ていて深くそれが省みられた。

 わたくしは広島で中学から高校へと編入生活を過ごした。当時、市街は中心地を除き家々の造りは明らかに粗末で、掘建小屋のような家屋も多かった。ビル内の映画館へ階段を上がるとき、ふと廃墟を歩む感覚を覚えた記憶がある。戦後4~5年は経ていたであろうに。

 街のあちらこちら、白衣で道に立ち施しを求める傷痍軍人はじめ、手足を持たぬなど、敢えて言います(不具者)が多かった。すれ違った人の顔面の、無残なすさまじさにたじろぎ、板のない橋げたを、電車の合間下駄を手にスタスタと渡るおばさんに目を見張った。

 いつの間にか慣れていたけれど、、、、。

 元来新聞はよく読むけれど、テレビニュースはあまり見ない方だ。ことにコロナ問題は映像化されたテレビでみると恐怖がより募ってしまう。目下ほぼ一人で闘病するわたくしが、恐怖心でニュース直視を避けていたのも事実であった。

 そのわたくしも6日の原爆投下「全記録」は厳粛に見終えた。だるいので投げ出していた足も思わずたゞす。けれど、これからもわたくしは逃げ続けるであろう。しかし、直視を避け続けることもできない。
今も窓辺に頬づえし、思考、追想はその矛盾を抱えこんでいる。

 今日9日は長崎への投下日。人類はいかなる残虐、暴行をもなし得る。原爆投下はアメリカに限らず古来世界中で為されたこと、繰り返されたことの延長に過ぎない。その事実をわたくし達は知っている。そして今現在、コロナ禍とともに国際間の不安も膨らみつつあるではないか、、、、。

 多分、人はほぼ総て誰しもが、苦しみ悩みを抱えているであろう。コロナ禍でそれはより重くなった。多くの人々が、生活苦と直面する事態に追い込まれている現状。生きる上でもっとも苦しい問題だ。しかも、慰めを求め、心許す人と会う機会も制限されている、、、、。

 思えば1947年、引き揚げ者として迎えたわたくしの最初の梅雨。母が見つけた日本最初の我が家となった借家、あの竹林に近い2間と土間のみの小さな家。あの時あの離れ家で、湿気で体が腐り行くようなうっとうしさを覚えたものだった。以来夏が苦手になっている。

 病後の身を躱しつつ過ごすコロナ下のこの夏は、長梅雨も加わりことさらに鬱々が加わる。取り込まれてしまってはいけない。

 生れながらに現実逃避、現実浮遊癖のあるわたくしには、その問題解決手段、身を躱す術に長けているようである。読みたい本・観たい映画・画集・聴きたい音楽は尽きないし、いつも手元にある。

 そしてさっきのこと、花苗がネット通販店から届いた。長年、近場の農園に出向き購入していたけれど、この春からの闘病、そして養生のため機を逸してしまっていた。で、通販店に直接電話問い合わせをしてみたのであった。おかげでなんとか好みの苗も、少し入っていた!
 
 夕食前、わたくしとしては大仕事だけれど、淋しくなっていたベランダが大分甦えるでしょう!好みでもなかった花が混じるベランダも良いのではないかしら?自分好みの小さな枠から、敢えて知らなかった世界が少し拡がったみたい!!

 老女の貴重な??(刻)を多く占める趣味の事がら。それらに心委ねている時、それはやはりわたくしの(現実の生)なのだと思う。



2020/7月 回復健闘?記


 前月記した5月半ばからの1ヶ月にわたる舌癌手術のための入院。わたくしとしては怒涛のように過ぎた日々のように思える。

 常にも増してスローでわがままな日々を過ごしつつ、退院後の独り暮らしもどうやら自力で無事乗り切った。まさに刻の経過のみが痛みを薄らげ回復へと連なるのを、身を以て知ったものである。舌先から全心身の末端まで、過ぎ行く刻とともに緩やかに癒えるのを感じる日々であった。亡き夫の写真に向かい語りかけてしまうことも多い日々であった。

 つい先日の受診検査も経過順調と認められた。ご褒美に昨日、退院後ちょうど1ヶ月を自祝することにする。敬愛する我がDrには内緒だけれど、自粛は解放して約4か月ぶりの渋谷で気になっていた2本の映画を観ることにした。1日に2本の映画を観るのは元気だった頃の私の、楽しみであると共に自己確認作業みたいなものだったから。

 その1本「ペイン・アンド・グローリー」は期待に違わぬ傑作で、胸に迫る作品だった。

 30年以上経たが、当時30代前半気鋭の監督、ペドロ・アルモドバルを始めて知ったのはもう30年以上も前、「欲望の法則」での衝撃的な出会いだった。内容、色彩感覚ともに当時、類を見ぬほどの強烈に前衛的な映画であったから記憶に深い。その彼が、やはり当時使っていた俳優アントニオ・バンデラスを監督自身を思わせる主人公に登用しての、自伝的な映画だ。

 長く彼の作品を愛好してきた者のみぞ知る歓びが、感動とともに胸に行き渡る。老いもまんざら悪くない。監督・役者ともに、こんなに上等に成熟した映画を作り上げている!長い刻を共に見つめ、ともに生き、老いて来た者の悦びと感慨は深い!!ペドロ・アルモドバル当年70才とのこと「ペイン・アンド・グローリー」は年代物ワインの薫り!!!

 2本の映画の間にお茶をして、帰途、デパ地下で美味しそうな食品を求めてバスで帰ってきた。コロナ不安下の日常生活。病後の老身を鼓舞して鬱を払い、一人乗り切るのもなかなかに大変。自らを騙し、騙すテクニックが必要だ(笑)

 で、今月の雑文発表もダラダラと怠けていたら今日、思いがけず美しい花束が届いた。お名前とお顔は確かに覚えがあったが、15年も前にアトリエを退会していたHさん(当時若かった女性)からで、(早く良くなってください)とあった。ずっとエッセー読んでいて下さってたとのこと!そんな方がいたなんて!!

 で元気を得て、今月も書きました。読んでくださる方が居て嬉しいです。この感謝を心にとどめおきましょう。


2020/6月 コロナ渦中闘病の記


 先月初旬のこと、わたくしは大きな不安を抱えていた。一向によくならぬ口内炎で歯科医の紹介を受け、T大病院口腔外科の診察を受けることになっていたのである。3月末頃から、自身が癌である可能性は半々だと感じていた。その不安、弟や息子に各一度洩らしていた。

 癌であったら手術や放射線治療は受けまいとも考えていた。痛み、苦しみは怖い。痛みの軽減をお願いし、なるべく安らかに逝きたい。そんな思いでT大病院でS医師の紹介受診を受けたその日、その場で即座に、舌癌であると診断を受けたのであった。

 わたくしはS医師に、死は当然、当たり前のことがらとして受ける気持ちで生きてきました。来たつもりです。その上で、「長く尊厳死協会に属しています。とても不遜な考えであるとは思いますが、手術等は選ばず出来るだけ穏やかな苦しみの少ない死への道を望んでいます」と正直な心境をお話しした。

 ところがS医師はこう言われた。「手術を受けないと痛みがひどくなります。そして約半年の余命になるでしょう」それは大変!痛みがひどくなるのは何より怖い!!わたくしは直ちに、勧められた手術に向けての入院検査をお願いしたのであった。

 その数日後の5月16日に検査入院したわたくしは、月末に3日間帰宅した後再入院。6月3日にはH医師の執刀で「ステージ2・舌癌」の摘出手術を受けたのであった。

 入院初日のH医師の初受診時、わたくしは自身の病の範囲を全くわかっていなかった。いかなる宣告が下されるのかと、多分に緊張していたと思う。のちに知ったことだけれど、わたくしの執刀医H医師は教授だったので、10人ほどの人がわたくしを囲んでいた。H教授から「これから貴女を診させていただきます」と告げられた際、緊張していたわたくしは、たぶん自身の落ち着きを保つためでしょう、大勢を前に思わぬ発言をしてしまった。

「みなさま、こんな大変な時期にお世話様になります。本当にありがとうございます」の前置きとともに、例のわたくしの持論「死は当たり前のことがらとして受け入れるつもりです。その上で、とても不遜とは思いますが、不治の病いを抱く場合は、なるべく痛みや怖さの少ない、安楽な死を希望いたします」と。

 その後約2週間の検査期間中、特に始めの1週間、言わば自身の身体寿命が判定中にある期間、やはり生まれて初めて覚える恐れ、怯えがわたくしの中に行き来したものだった。(自身の症状がいかなる範囲、程度にあるのか?この恐怖から逃げたい!逃げられたら!)と囁くものが胸の底にあった。折に触れ恐怖も頭をもたげた。

 死そのものに対しては(当たり前のことが自身に訪れた)と確かに思えた。けれど、死にいたる経過。(予期し得ず長引くかも知れぬ痛みや恐れからは逃れたい)情けなく弱い、弱かったわたくしの告白である。

 飛び降り、服毒。そんな一瞬の手段があるならば、逃げたい!そんな思いが心をかすめたこともある、検査中のあの日々。そして病棟周辺の入院患者たちを見て知る、重い不治の病と向き合う普通の人々の厳しい闘病の姿に胸を打たれた。恐怖とともに、死に至る過程を始めて身にしみて深く思考させられた日々であった。

 諸検査を受けるためには、舌を細かく作動する等の対応が必要であった。つくづく、姉でなくてわたくしが舌癌患者となって良かったと考えたものである。認知症の進んでいる姉が、もしこの立場になったら?痛みとパニックでとても対応できないであろうし、そんな患者には施術も成しえぬのではないか??おそらく、、、!

 保護者としてそれを見守らねばならなかったら???などと考えるだけで苦しい。わたくしは心から、舌癌になったのが姉でなくわたくしであって良かった!と、病いを受け入れることができたように思う。

 わたくしの場合、約2週間にわたる検査及び診察の結果、舌癌ステージ2、要摘出手術。他器官に転移はなし、ただし胃に不明な影あり、との判定を得て、もちろん切除手術をお願いしたのである。

 手術から12日後の昨15日、わたくしは退院した。ステージ2の舌癌以外、杞憂された他器官への転移は一切なかった由。そして回復もとても順調であった。実は術後1週間目の9日に、H教授から12日の退院を言い渡された。けれども退院後の独り住いに不安を覚え、月曜15日まで伸ばして頂いたのであった。

 話すことも、食べることもまだまだこれからのわたくしだ。しかし今回命を助けられるに至った丸1ヶ月間の闘病経過に於いて、お世話いただいたT大病院スタッフの方々に深い心からの感謝を感じている。今のところ紆余曲折全て順調に経過し、一段落したのだ。

 そして私は改めてわが悪運の男神に感謝を捧げている。わたくしは未だ見捨てられていなかったようだ。まず執刀医H教授は、全て門外漢であるわたくしが初めてお会いしたその日から信頼と好意を勝手に抱いていた方であった。

 「感覚的にあの先生が好きでとても信頼、尊敬できる」と入院日付き添ってくれた息子に言っていたものだ。その時、その人が教授でわたくしの執刀医となることは全く知らなかった。そしてその後H教授は休日を除き、毎夕ご帰宅前に必ず、担当患者を見回ってから帰宅されるのでった。そんなお人柄だ。

 今ひとつ、忘れえぬことがある。手術を控えた前日の夕方、不忍池を見渡す談話室でわたくしは自分で淹れたコーヒーを飲んでいた。気にいりの場所で心を鎮めていたのである。すると顔見知りの若い口腔外科の女医と若い男性医が来られた。「手術前で興奮をしていらっしゃるでしょう」と、励ましに来てくださったのである。

 実際不安を抱えていたから若い医師たちの声援はとても嬉しかった。「元気、勇気が出ましたよ」とお礼を言い「こんな時でなかったら握手していただきたかった」と言ったら「構いませんよ」と女医のSさん。嬉しくて思わずハグしたら強いハグで返してくださった。若い男性医Nさんともハグを交わす。とっても元気、勇気を受けた。ありがとう!ありがとう!!

 みなさまコロナ禍でそれぞれが大変な中に在られる、と思います。そんな折にわたくしの闘病記を書いてしまいました。今回のわたくしの闘病は、本来は息子、弟、二人の親友、姉がお世話になる方々にのみ打ち明けて対応する予定でした。コロナ禍中、全て成り行き任せで沈黙の中行動するつもりでした。

 細やかな意識ながら、今回は行先の見えぬ一身上の大事をひっそりと自分自身で終える予定だったのです。ところがある成り行きで直前になり、サガン講師にT大病院入院を知らせることになってしまったのでした。

 で、その結果、わたくしのこの厳しい時機にあっての、はた迷惑な入院は幾人もの方々の声援、応援をお受けすることになってしまいました。そしてそれはやはりとても心強く元気の源、回復の源となったものです。ありがとうございました。声援に応えようと経過報告を頑張ったおかげで、全くの初心者であったスマホでのメールも少し上達したようです(笑)

 退院した昨日の午後、変わり果て荒れていたベランダの手入れを思わずしてしまいました。約2時間ほど・・・・。するとフラフラだった体に力が少しずつ戻り、食も進みました。今日はこの文も書きました。

 22日、来週の月曜日はT大病院受診日です。帰りに映画館の大スクリーンで好みの映画を観れたらいいな!観たいなー!!

 


2020/5月 道草


 昨日、歯医者さんへ向かっていたバス通り。マンション建設予定地に立つトタン塀の下で、ほんの小さな男の子がうずくまり、傍らに手荷物を下げた若い母親が所在無げに立っている。見ると2才ぐらいのその子は、塀のすき間から生える雑草の中に小さく白い花をつけた一株を見つけ、それを得ようと小さな手で格闘しているのだった。

 思わず、わたくしは笑いながら傍らの母親に言った「ほんとうの道草ですね!」ママも笑い、頷いた。それだけのことで歯医者さんへ行かねばならぬ気の重さが、ずいぶん晴れたものだ。一向に良くならぬ口内炎を抱え、検査と口腔外科への紹介状を依頼する用件を抱えていたのである。

 夫を亡くしてもう10年と2か月。当初耐えがたく思えた孤独もずいぶん手馴らし、引き換えに得た自由は十分に生かし享受してきた。生来、不良・不逞・不穏に重ね、気まぐれでもあったからこの10年の過ごし方に悔いはない。自分らしく生きる幸福を知っている。

 家事はゴミ捨て(これは大役ですね。特に資源ごみの日は)と、お隣のスーパーへの買い物くらいしか出来なかった夫であった。ゴミ捨てのたび、胸を吹きゆく風に時に崩折れそうになり、いく度心に繰り返したことかしら(Eさん 後に、わたくしが残った。これがわたくしの恩返しなんですね)と、、、、、。

 今もワインの空き瓶等の入った重い荷を収集日前日の夜中に運んでいる。(早朝、とてもその力は持てない)ダンボール箱はゴミ置場の塀にすがり、両足で踏み開く(両手に、その力は無い)とても人様にお見せし難い姿である(笑)
所定に従った供出は、老婆にとって毎週のひと仕事であるのが実情だ。

 さりげなく過ごす日常の大切さを今日もわたくしは噛みしめている。今東京で、日本で、世界の多くの国々で損なわれている日常。その中にはわたくしの考えも及ばぬ、巨大な苦悩があるのは確かである。

 いつ陥るかも知れぬ、大きな空洞の淵に立たされる恐怖。この数ヶ月、そんなものと人は対面させられている。結果、己とひたと向き合わざるをえない日時を重ねていると思う。

 だから少しは気合いを入れ、小さな出来ることを片付けねばならない。そうも思っている。でも実はこの時とばかり、子供時代からの道草に多くの時を費やしているのである。

 世界歴史上いかなるパンデミックの後も「文芸・文化は決して滅びなかった」とわたくしは思う。当然変容はあるであろう。しかし芸術・文化は多くの人間にとって必要な道草。わたくしは子供時代から自身の居場所ともしていたでは無いか!

 スポーツ音痴のわたくしもふと気づく。多分スポーツ愛好家も同じエールを送っているのでしょうね。

 そして友の温かみ。その一人、玄関先で少し離れてマスク・本・名店のフランスパン等を渡してくださった(K)さん。貴女も長野のご両親とは長く会えないのに!
その夜は口腔の痛みも軽く、久しぶりの美味しいパンにぱくついたものだった。

 日常、極小微細ながら種々自分を保つことを心がけてはいるつもりだ。脳の働きが朧になりゆく姉に、今日も電話をする。過去の思い出をはじめ、ゆるく長〜い会話。すぐに忘れ去られる会話を交わす。

 電話口で姉は声を立てて笑っている!!!


2020/4月 大いなるものへ


  渋谷パルコ劇場こけら落とし公演の(ピサロ)は3月31日まで上演された。わたくしの持つチケットは30日夜公演。不要不急、最後の外出日となった当日、席はマスク着用の客でほぼ半数ぐらいが埋められていた。あとは棄権されたのであろう。

 渡辺謙主演、ピーター・シェーファー原作の、スペイン軍によるインカ帝国侵入時をテーマにした舞台はアイロニーに満ちていた。不穏な今の時期にも適し、良い出来だと思った。脇を務める大役で出演していた外山誠三氏は亡くなった知人(サガン古参会員)のご子息である。思いがけぬ今年の出会だった。個人的な感慨も重なる帰途バスの中、敬愛し、最晩年まで親しくさせていただいたT氏に、ご子息の活躍をご報告をする。胸うちで・・・・・

 以来ハタ迷惑を慎み、遠出は一切していない。けれど、近隣でのひとり花見は例年通り楽しんだ。わたくしの名所、矢沢川畔りの10数本。樹齢40年位になるかしら?いずれの年も、この川畔の桜木はただ美しく朧に、花開き、散っていった。

厳しい態勢の中の今年のお花見。見受けるのはたまの通行人か犬を連れた散歩人のみ。わたくしは多くの亡き慕わしい人々と会話をする。例年、この季節のわが祭りごと。2度3度重ねて穏やかに終了。

 本屋、薬局、スーパー行き以外家とベランダに篭もっている。もう10年以上独り暮らし、寂しさと引き換えに何よりも大切な自由をそれなりに得ている。孤独には強いつもり・・・・。だからわたくしの日常はあまり変わらないと云えよう。退屈の文字は幸いわたくしの辞書にない。

 姉と会えない不安はもちろんあるけれど、今回のパンデミックでやや、いいえ、始めて肝が座ってきたように思える。太局がすこし見え、姉に対しての客観性も以前より持ち得るようになったようだ。

 人一倍わがままに自由に生きてきたわたくし。いつ生を終えても良いと思っているつもりだ。でも惚けゆくとともに無邪気にもなりゆく姉、いつも(喜代ちゃん)を求めている姉を置いて先に行くわけには行かない。それが目下わたくしのテーマ。コロナ罹患はできる限り避けたい。

 テレビ視聴の時間が増え、録画のため新聞紙面等をチエックすることも増えた。結果、昔から気にしていたけれど聴くこと、見ることのなかった忌野清志郎を2時間番組で知り堪能した。

 また志村けんさんの物凄さも、亡き後で初めて知ったものだ。多分どこかでバカにして見ていなかった「8時だよ全員集合」等。ほぼ全く志村けんさんを知らなかった。この類稀な才能を見知っておれば・・・・・と遅い気づき。悔やむ。

 でもテレビで楽しみを得る世界は確かに広がった。暇の楽しみ方の目の付けどころが広がったのだ。今回の収穫なり!

 本は7~8冊買い込んだけれど、近くにTSUTAYAもない。当分は硬軟取り混ぜたテレビ番組の恩恵に期待して、持久戦に対峙しよう!!

 老人であるわたくしもそれなりに切に生きている。けれども現役で生きている多くの方々の今のご苦労。国の対策も乏しい今、推察する他に術もない。

 (それぞれの心中か、あるいは天空に)有るか無きか?何ものか力ある、大いなるもの。わたくしはそれに祈りかけてみる。


2020/3月 蟄居はしません、出来ません


 コロナ問題はまだまだ先が見えないようだ。不要不急の外出は控えるべき時期である。むろん自身のためであるが、拡散防止のため、市民としてのエチケットでもある。

 先日、毎月恒例としている丸1週間、兵庫の姉を訪問する時期を前にして、施設に問い合わせをした。(ご遠慮願いたい。入居者にもなるべく外出を控えていただいているし、レストランの食事も入居者のみに提供して居ります。お問い合わせいただいて良かった。お電話をしようと思っていました)予想された対応だった。

 認知症の進行する姉を見守り得ぬ不安はあるが、高齢者のみを抱える施設として当然だ。頼り甲斐のある守りの姿勢にはむしろ感謝する。先ずはケアマネージャーさんとも連絡し、諸事対策を・・・・・

 幸運にも姉の担当ヘルパーさん達は信頼し、頼り甲斐のある方々である。一段落して姉本人にも電話で訪問不能を告げた。状況を穏やかに説明すると、すぐに忘れ去られるであろうとも思うが、安らかな了解を得ることができ心治まる。

 俄然、わたくしは多くの開放された時間を取得した。コロナ細菌発生時から心がけていた対抗策、最重要と思われるそれは、なるべく強い体を保つ事だ。だから良い食事を、そして十分な眠りをと(たとえ、薬に力を得ようと)日々注意を怠らぬように過ごす。

 たしかに日々がのんびりしたように思う。新聞はずいぶんと読み込むし、ほぼ録画のテレビを見る時間も増えている。あいにく新しい本は1冊しか買い置きがなかったけれど、これはお楽しみに取り置いている。積ん読本や、2度読みを余裕で楽しむ。

 さて問題は映画鑑賞だ。2月なかば、自力で無事確定申告を済ませていたわたくし。自分へのご褒美として映画は見続けていた。2月は今に比べると事態への切迫感が緩かったし。

 おりから観たい作品が多い。心身ともに余裕を得てどんどん外出したいのだけれど、今現在のこの風潮。不要不急の老人の外出はさすがにためらわれる。自己責任でも担い得ぬ風潮もひしひしと、、、、、。

 でも明日やっぱりわたくしは、日比谷、有楽町界隈をうろつくであろう。帽子・メガネはいつものことだけれど、貴重なマスクを深く、マンションの廊下はなるべく速やかに。エレベーターで知人には会いたくない。

 マスクについて、覆うと圧迫感、不快感を受けなんだか咳をしたくなったりする。うっかり咳でも出たら白い目を浴びそうで怖い。事実、マスクをつけると反射的に咳が出てしまうわたくし。いろいろと外出には気構えを要する。それでも明日はいつものように2本の作品を観、夕食も採って帰ろう。

 気づくと、かって問題児であった高校生時代の魂そのまま。世の習いに反し、不良・不逞な老人として過ごし行くわたくしであるようだ。


2020/1月 アカデミー賞の快挙!


 長年来、映画を愛好してきたわたくしだけれど、アカデミー賞は格別重視していなかった。選考結果を、適切と思う年もあったが、??と感じる年もよくあったからあまり信を置いてはいなかった。何しろ商都ハリウッドの大御所の催しだし、好みの問題でもあるから。

 まぁ、式自体の華やかさをテレビニュースで楽しむことはよくあったけれど・・・・

 でも今年のわたくしは少し違っていた。あの映画が入賞するか、否か?注目していたのである。昼間にテレビをつける習慣を持たないので、姉の許から夜遅く帰宅した翌日の夕刊でわたくしは知った。あの『パラサイト 半地下の家族』が英語以外で初めての作品賞を得たことを!さらに、監督・脚本・視覚効果賞と、最高の受賞結果!!

 たった一人での(会心)だけれど結構気分が良いものだ。1月に封切りを待つようにして観た『パラサイト 半地下の家族』は、とにかく凄みのあるほどの出来の良さだった。個人感想だけれど、映画として圧倒的な傑作であることを確信していた。

 15年以上前に見た韓国映画『殺人の追憶』で感嘆して以来、追って来た監督(脚本も)と俳優の名コンビだ。
何しろポン・ジュノ監督は深く、鋭い。そしてその視野は広い。耐え得ぬほどにエグく表現される登場者たちの真実。

 『パラサイト 半地下の家族』では、大雨が降ると道路からの浸水を受ける半地下アパートに住む4人家族と、丘上の家政婦、運転手を従え瀟洒な生活を楽しむIT経営者3人家族、との対照で現代の格差がえぐり出される。程度の差はあるが多くの国々、そして当然我が国も抱える大難題である。

 たまたま得た長男の家庭教師就任を機に、たくましい貧者家族が、丘上の富者に次第にパラサイトしてゆくこの映画。じわじわと果てしのない恐怖が寄せてくる。その展開が超1級の娯楽作品であるのも確かだ。エグい、しかしあざとさは無い。受け入れるのにほとんど生理的な拒否反応を起こす人もいるのでは、とも思われる。

 同行した親友も、近年多くの映画を観るようになっていたが、執拗なほどの展開に拒否反応を起こしたようだった。わたくしも見終えた後、なんだか膓を掻き回された後のような感じをお腹に覚えたものだ。もちろん人によってでしょうが・・・・・

 そぅ、思い出した。少し似た経験を。映画を見終えトイレに直行、激しく吐いてしまった経験がある。

 あれは、イギリスのピーター・グリーナウェイ監督「コックと泥棒、その妻と愛人」だった。もう30年ほども前になる。汚臭を放つほどの悪が、絢爛たる美に装われたり、目を背ける醜悪な場に展開したりした映画だった。でも美術的、芸術的にすごかった!確か??

振り返ると、わたくしもご苦労さまなこと。ほとんどマゾ見たい(笑)

 再び『サパラサイト 半地下の家族』のハリウッド快挙に戻ります。わたくしは今回の、映画祭史上初、東洋系映画の受賞を喜び、アメリカも捨てたものじゃない!と今夜のワインを楽しむつもりだ。
大統領の暴挙が重なり、世界の平和にも大きな影響を与えていると思われる大国で、保守的だった映画界に昨夜新風が立った。世界中にこれを祝い悦ぶ映画ファンがたくさんいるのではないかしら?

 個人も世界も、先行きが様々に見通し得ぬ暗さを伴う現代にあっての、ささやかな快挙!快報!!!
今夜、わたくしは一人ではない。志を同じくする?世界中の映画ファンと共にさぁ祝杯を挙げよう。 


2020/1月 迎春!されど変わらぬ日々のドタバタ


 7日夜、わたくしは無事伊丹から帰宅していた。姉の許、元日正午には息子も駆けつけた。恒例、総支配人以下和服正装姿での華やかなご挨拶を受けた後、レストランでおせち料理、お屠蘇も頂いた。ここで4度目のお正月気分を味わったことになる。2日には弟も恒例となった(フレンチおせち)持参で加わり、みんな独り身になった3姉弟が揃った。3日に息子、5日、弟が帰り迎春行事は終えたのだ。

 日頃往復には(ひかり号自由席)を利用しているが、大晦日の新幹線は無論予約をとっていた。しかし超混雑への不安等、わたくしは年末来どこか緊張を強いられていた。そして身内行事とは言え、常日頃姉を見守って頂いている大集団の中で、思考衰えた姉を支えての丸1週間である。本来人付き合いに不器用で、その上さらに老いているわたくしにとっては歓びであると共に、心身ともに疲労困憊の丸1週間でもあった。

 さっきワイングラスを洗いつつ考えていた。一昨年弟との旅先、リュウブリヤーナの老舗で求めたグラスだ。店の創立時を忍ばせるアールヌーボー調の繊細なグラス。わたくしにしては高級品だけれど、日常に使っている。夫を失った後、外国での旅先で必ずのように、自分のために少し上等なグラスを持ち帰っている。いずれ壊れると知りつつワインを楽しむその束の間と、旅の思い出を愛おしむために。

 デザインと手触りを愛でつつ(気をつけて大切に洗おう)と丁寧に洗い、流しにおいた。続けてスーブ碗を洗っていると、洗剤で手が滑り華奢なグラスの足を直撃。さっきの愛着は惜別の情だったのだと知った。(笑)ハイ、これがわたくしの本年初の失敗談と言うわけです。

 昨年末はドジがひどかった!気持ちの焦りであろう、イロイロと1日前倒しで行動してしまったものである。

 クリスマス近く、横浜馬車路の劇場を数年ぶりに訪れた。午後2時開演に合わせ大分早く着き、カフェでお茶もした。いつも間際に駆け込むことの多いわたくしとしては、珍しく余裕の観劇体制である。と、案内された席に先着者が?? 確認されたのはわたくしの間違えであった。翌日出直す元気はもう無かったので、幾つか空いていた席の中から入場券を購入するハメに!無念!!

 手持ち翌日のチケットは、帰宅後ご近所の数少ない知人に事情を話してみたけれど、慌ただしい時期に行ける人はいない。もう夜に入っている。考えて、マンションの掲示板にメモつきでぶら下げたら、翌夕郵便受けに礼状が入っていたっけ!気ぜわしく焦り、時間も費やした事後処理だったけれど(これで良し)と済ませた。

 数日後、多忙な歯医者さんから取っていた予約日。がんばって、指定時間である11時の5分前にはきちんと到着した。しかし、それも予約日は翌日であったのだ。アーァ。

 夜が遅く深いわたくしとしては、午前中からの約束事は大緊張を要する。いずれの失敗もお正月の大仕事を控えた心焦りと不安の顕れであろう。事件前日も当日も、カレンダー確認をすっかり失念し(明日は朝からしっかり、きちんとせねば!)と思い込み、意気込んで眠り、起きていたものだ。

 知人はおそらく皆が認めるであろう、おっちょこちょいなわたくし。天性のうっかりに加え老いの衰えも当然加わっている。老いを自戒、意識するあまり余計な失敗が出現しているのも厳然たる事実。

 夫、父、母、弟よ。今もわたくしの中に共に在りつづけるわが家族よ。今年もどうぞ見守り続けてください。叱咤してください。そしてこの雑多なつぶやきを読んでくださる方々、こんなにも鈍なわたくしですがどうぞ今年もお見捨てなくお願いします。

 みなさま。良き展開の年でありますように!