先月初旬のこと、わたくしは大きな不安を抱えていた。一向によくならぬ口内炎で歯科医の紹介を受け、T大病院口腔外科の診察を受けることになっていたのである。3月末頃から、自身が癌である可能性は半々だと感じていた。その不安、弟や息子に各一度洩らしていた。
癌であったら手術や放射線治療は受けまいとも考えていた。痛み、苦しみは怖い。痛みの軽減をお願いし、なるべく安らかに逝きたい。そんな思いでT大病院でS医師の紹介受診を受けたその日、その場で即座に、舌癌であると診断を受けたのであった。
わたくしはS医師に、死は当然、当たり前のことがらとして受ける気持ちで生きてきました。来たつもりです。その上で、「長く尊厳死協会に属しています。とても不遜な考えであるとは思いますが、手術等は選ばず出来るだけ穏やかな苦しみの少ない死への道を望んでいます」と正直な心境をお話しした。
ところがS医師はこう言われた。「手術を受けないと痛みがひどくなります。そして約半年の余命になるでしょう」それは大変!痛みがひどくなるのは何より怖い!!わたくしは直ちに、勧められた手術に向けての入院検査をお願いしたのであった。
その数日後の5月16日に検査入院したわたくしは、月末に3日間帰宅した後再入院。6月3日にはH医師の執刀で「ステージ2・舌癌」の摘出手術を受けたのであった。
入院初日のH医師の初受診時、わたくしは自身の病の範囲を全くわかっていなかった。いかなる宣告が下されるのかと、多分に緊張していたと思う。のちに知ったことだけれど、わたくしの執刀医H医師は教授だったので、10人ほどの人がわたくしを囲んでいた。H教授から「これから貴女を診させていただきます」と告げられた際、緊張していたわたくしは、たぶん自身の落ち着きを保つためでしょう、大勢を前に思わぬ発言をしてしまった。
「みなさま、こんな大変な時期にお世話様になります。本当にありがとうございます」の前置きとともに、例のわたくしの持論「死は当たり前のことがらとして受け入れるつもりです。その上で、とても不遜とは思いますが、不治の病いを抱く場合は、なるべく痛みや怖さの少ない、安楽な死を希望いたします」と。
その後約2週間の検査期間中、特に始めの1週間、言わば自身の身体寿命が判定中にある期間、やはり生まれて初めて覚える恐れ、怯えがわたくしの中に行き来したものだった。(自身の症状がいかなる範囲、程度にあるのか?この恐怖から逃げたい!逃げられたら!)と囁くものが胸の底にあった。折に触れ恐怖も頭をもたげた。
死そのものに対しては(当たり前のことが自身に訪れた)と確かに思えた。けれど、死にいたる経過。(予期し得ず長引くかも知れぬ痛みや恐れからは逃れたい)情けなく弱い、弱かったわたくしの告白である。
飛び降り、服毒。そんな一瞬の手段があるならば、逃げたい!そんな思いが心をかすめたこともある、検査中のあの日々。そして病棟周辺の入院患者たちを見て知る、重い不治の病と向き合う普通の人々の厳しい闘病の姿に胸を打たれた。恐怖とともに、死に至る過程を始めて身にしみて深く思考させられた日々であった。
諸検査を受けるためには、舌を細かく作動する等の対応が必要であった。つくづく、姉でなくてわたくしが舌癌患者となって良かったと考えたものである。認知症の進んでいる姉が、もしこの立場になったら?痛みとパニックでとても対応できないであろうし、そんな患者には施術も成しえぬのではないか??おそらく、、、!
保護者としてそれを見守らねばならなかったら???などと考えるだけで苦しい。わたくしは心から、舌癌になったのが姉でなくわたくしであって良かった!と、病いを受け入れることができたように思う。
わたくしの場合、約2週間にわたる検査及び診察の結果、舌癌ステージ2、要摘出手術。他器官に転移はなし、ただし胃に不明な影あり、との判定を得て、もちろん切除手術をお願いしたのである。
手術から12日後の昨15日、わたくしは退院した。ステージ2の舌癌以外、杞憂された他器官への転移は一切なかった由。そして回復もとても順調であった。実は術後1週間目の9日に、H教授から12日の退院を言い渡された。けれども退院後の独り住いに不安を覚え、月曜15日まで伸ばして頂いたのであった。
話すことも、食べることもまだまだこれからのわたくしだ。しかし今回命を助けられるに至った丸1ヶ月間の闘病経過に於いて、お世話いただいたT大病院スタッフの方々に深い心からの感謝を感じている。今のところ紆余曲折全て順調に経過し、一段落したのだ。
そして私は改めてわが悪運の男神に感謝を捧げている。わたくしは未だ見捨てられていなかったようだ。まず執刀医H教授は、全て門外漢であるわたくしが初めてお会いしたその日から信頼と好意を勝手に抱いていた方であった。
「感覚的にあの先生が好きでとても信頼、尊敬できる」と入院日付き添ってくれた息子に言っていたものだ。その時、その人が教授でわたくしの執刀医となることは全く知らなかった。そしてその後H教授は休日を除き、毎夕ご帰宅前に必ず、担当患者を見回ってから帰宅されるのでった。そんなお人柄だ。
今ひとつ、忘れえぬことがある。手術を控えた前日の夕方、不忍池を見渡す談話室でわたくしは自分で淹れたコーヒーを飲んでいた。気にいりの場所で心を鎮めていたのである。すると顔見知りの若い口腔外科の女医と若い男性医が来られた。「手術前で興奮をしていらっしゃるでしょう」と、励ましに来てくださったのである。
実際不安を抱えていたから若い医師たちの声援はとても嬉しかった。「元気、勇気が出ましたよ」とお礼を言い「こんな時でなかったら握手していただきたかった」と言ったら「構いませんよ」と女医のSさん。嬉しくて思わずハグしたら強いハグで返してくださった。若い男性医Nさんともハグを交わす。とっても元気、勇気を受けた。ありがとう!ありがとう!!
みなさまコロナ禍でそれぞれが大変な中に在られる、と思います。そんな折にわたくしの闘病記を書いてしまいました。今回のわたくしの闘病は、本来は息子、弟、二人の親友、姉がお世話になる方々にのみ打ち明けて対応する予定でした。コロナ禍中、全て成り行き任せで沈黙の中行動するつもりでした。
細やかな意識ながら、今回は行先の見えぬ一身上の大事をひっそりと自分自身で終える予定だったのです。ところがある成り行きで直前になり、サガン講師にT大病院入院を知らせることになってしまったのでした。
で、その結果、わたくしのこの厳しい時機にあっての、はた迷惑な入院は幾人もの方々の声援、応援をお受けすることになってしまいました。そしてそれはやはりとても心強く元気の源、回復の源となったものです。ありがとうございました。声援に応えようと経過報告を頑張ったおかげで、全くの初心者であったスマホでのメールも少し上達したようです(笑)
退院した昨日の午後、変わり果て荒れていたベランダの手入れを思わずしてしまいました。約2時間ほど・・・・。するとフラフラだった体に力が少しずつ戻り、食も進みました。今日はこの文も書きました。
22日、来週の月曜日はT大病院受診日です。帰りに映画館の大スクリーンで好みの映画を観れたらいいな!観たいなー!!