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2017/12月 義妹逝きて


 先月、5年ほど闘病していた義妹が73才でとうとう逝った。病院から弟と二人っきりの住まいに戻って来ている彼女に逢い、お礼とわかれを告げたくてその夜駆けつけた。

 元来、顔立ちのよい人だったがこれまで出会った長い年月の中で、もっとも美しい微笑みを湛えて横たわっていた。そう、童女のごとく天女のごとく清々しく暖かな笑みを湛えていたのだった。やすらぎが我がこころにも伝わる。

 義妹をあまり褒めるのもおかしいかとは思う。けれどやはり(見事に逝った人)だと心の内で讃えている。この5年間、ずっと前向きな闘病生活者だった。幾度か苦しい放射線治療も受けている。それを乗り切ってきた人だ。愚痴をこぼさずに!

 弟によると、その彼女も、今回は死を自ら悟ったらしい。亡くなる丁度半月ほどまえ、長い確執をつづけ、決して受け入れようとしなかった或る身近な人に対し、自ら詫びたいと弟に申し出たと言う。

 それは絶え間ない痛みに対する緩和剤の影響で、意識も朦朧としがちな間のハッキリとした意思表示だったらしい。(この問題は彼女を苦しめる)と判断した弟は近年それに関して口を差し入れずに居たとのことだ。むろんさっそく伝えた。

 相手はすぐに訪れ共に詫び合い、許し合った。それからの日々、毎日一度ならず訪れ義妹の体をなで、さすり心を込めて看病したとのこと。
それを喜び義妹は病院スタッフ等にもはっきりと彼女を紹介していたとの事である。

 人は、自らの生を最後まで高めることが出来うるのだ。身近に見た義妹のみごとに美しい終活であった。

 (S子さん長いあいだ本当にありがとう。苦しみから解放されて良かったわね。貴女ほんとうに綺麗よ。今まで逢った中で一番美しいわよ)押し寄せるものを胸に、わかれを告げる。

 思えば若かった日から老いの日々までの間、幾度か本音で彼女と語り合う機会もあった。苦しくきつい会話を交わした夜もある。

 彼女はたしか大学で心理学を専攻していた。わたくしと言えば大学進学もしていなけれど、人間ウォッチングは生まれながらの習癖(ただし、自身が興味を持つ対象のみであったが)。だからお互い、自身のダークな部分にも充分気づきつつの会話だったと思う。

 振り返ると、長生した母のさいご106才までの数十年間、弟は、夫に早く先立たれた姉と同居する母への送金を続けてくれていた。一言の愚痴もなく共にあった義妹に、わたくしは大きな感謝を抱き続けてきた。

 全くおめでたいわたくしであった。その事態に気づいたのは、たしか15~6年前のこと、亡き夫からわたくしへの指摘によってだった。
弟夫婦による母への長い経済支援。それが実家の一族(母・姉・わたくし・上の弟)にとってどれほどの恩恵、安らぎであったことか・・・・。

 余談だが、困窮引き揚げ者だった旧わが家。姉は弟が京都府立医大に合格したとき先ず(母が可哀想、また苦労が伸びる)との思いが来たと言う。近年姉の口から聞き知った。わたくしと言えばやはり単に(良かった、お目出度う)とのみ喜んだものだった。オメデタイ事に・・・・。

 家族の思いもさまざまだ。母や姉にとって、苦労したのだから医院経営も順調な弟が尽くすのも、どこかで当たり前だったのでしょう。と、15~6年前わたくしは初めて思い知ったのだった。(S子さん、改めて長い間ほんとうにありがとうございました。貴女はわたくしの恩人でもあったんです)

 すでに12月に入り。もっぱら自分本位で生きてきたから、終活期に入ってわたくしは何かと忙しい。心身の衰え目立つ姉、最愛の伴侶をついに失った弟。ともに出来るだけ支えてあげたいと思う。

 このコーナーも続けて行きたいものです。勝手ながら毎月、整理ノートの清書ほどの気持ちでつづけさせて頂いてます。ご感想あるいは、かくもドジな私へのご助言など聞かせて頂けたらうれしいと思います。


2017/11月 旅立ちたい


 姉の住む伊丹のシニア施設から先日帰宅したばっかり。姉とは計20日ほどをともに過ごしたことになる。

 故郷大連の小学校の同窓会に参加するため、10月半ば過ぎに迎えに行き、雑事を処理してともに帰宅。翌々日、もはや出席者の少なくなった同窓会に共に出席したのちも、ひさしぶりの妹宅で1週間ほどを過ごしてくれた。

 思いの外元気な姉の要望を受け、ほぼ半世紀ぶりにはとバスにも乗った。早朝から遅い夕刻まで日光白根山その他をめぐった1日、いつもの定めのない2人旅とは異なり驚くほどの効率のよさ!しかも昼食付きで約1万円。キノコやリンゴのお土産ももらい、充実の1日だった!

 標高2000米の白根山へはロープウエイでの往復、折から紅葉の最盛期にあった。日本の美しさを改めて思う。切ないほどの眺望だった。

 また、ある日はちかくの等々力渓谷にもタクシーで赴いた。昔、小学生の息子やその友達を率い、お弁当持参で歩いて度々いったものだ。数十年ぶりだったが都内唯一の渓谷は少しも損なわれず,深山の趣をすらたたえている。

 さらに数年前区に寄贈された、大富豪からの隣接する広大な地も世田谷区が東屋つき庭園として手を入れて解放されていたのである。そんなことわたくし全然知らなかった。

 それは渓谷からの長い階段を登りつめ、前後に小山を控える絶景の地にあった。

 苦しく胸ふさぐ見聞の多い今の時代に、係の人から聞いたこのうつくしいお話。わたくし達は疲れも忘れるおもいだった。進められてベンチで無料のお茶の接待まで頂いて帰途に向かう。

 再び渓谷にくだるとせせらぎのほとりを辿り等々力駅ちかくに戻った。お茶の小憩後、なんとわが家までぶらぶら歩きで帰宅したのである。その夜のうな重お取り寄せは、いつもに倍する味だった。姉もわたくしも完食する。

 姉も心から喜んでいた。(同窓会に出られない。無理だ)なんて直前まで渋っていた姉のことばが信じられない思いで思い出される。(それを言うと本人も感心している)笑

 そんな姉を大阪に送り届け、また大事な件で信託銀行の人と対応し、お掃除業者の人との面談もする。等、等、等いろいろな雑務、でも大切な事を共にこなして帰宅したわけなんです。わたくし。

 達成感。危惧。いまだ心はない交ぜのまんまだけれど近頃しきりにわたくしにささやき、そそのかす声がある。

 (ひとり旅で遠くに行こう。いまそれが出来る間に)

 夫を亡くし3年後から再開した外国えの旅はそれまでと異なり、ずっと姉との2人旅だった。それはやはり掛け替えなく良き旅だった。でももう姉に外国への気まま旅は無理。わたくしに2人分の長旅を支える力も見通しがつかない。

 悪いけれど出来る間に実行しよう。根っこからの我が侭人間らしく、来年は早めにどこかえ発とう!しかし、かってのウキウキとした期待感はもはや持てない。不安もとうぜん抱えている。でも当てもないさすらいへの思いは強い。憧れは尽きないのだ。

 冬も穏やかな南イタリアに心は誘われる。ついこの間の疲労、心労はまだ収まっていないと言うのに、、、、。

 戦後1年半を経て、初めて踏んだ日本、内地。東京に落ち着くまでなじみにくい地だった。どこかで失われた植民地、旧大連を故郷と思っているらしきわたくし、、、、。

 生まれつきのように漂泊流民のたましいがわたくしの中に棲みついているようだ。
それがちかごろ激しく台頭している。

「あぁ、とにかく年内は大人しく自身と姉の生活諸事カタヅケに専念しよう」夕焼け空に誓ってみる。


2017/10月 街に出よう


 誰とも逢わず、会話もしない日を半月ほど過ごした。その間、映画や演劇は楽しんでいた。本も読んだ。けれどすべて自問自答の日々であった。あまり感心したことではない。

 で、結構いそいそと予定していた夕方からの集まりに出かける。

 表参道で地下鉄を銀座線に乗り換えると混んだ中、空席をみつけた。ほっとして腰掛け、出がけに突っ込んで来た夕刊をバックから取り出した。

 左隣は中年男性、右側の若い女性はスマホ捌きに余念がない。双方に気をつかい深い2つ折りにして中心を持ち、記事を拾う。金曜日とあって朝日の紙面は映画特集日。映画マニアだから楽しい。

 興味深く見入っていたら突然、右ほほをピシャッと紙面がはたいた。おどろいて顔を上げてすぐに気づく。(あ、夢中になって紙面が広がり迷惑かけたんだ)右隣を見た、まず詫びようと思って。

 その人はさっきと全く変わらぬ表情でスマホに集中していた。20代後半かしら?綺麗な人だ。うつくしいピンクにシルバーのラメをあしらった長い爪が忙しく動き、それは全くわたくしに関わりのない場にいる人だった。

 詫びの言葉は呑み込んだ。むしろそれは更に彼女の世界を侵食することになる。そう思った。だから黙したまま目的地で先に降りた。

 たぶんほとんど生理的な反応だったのでしょう。邪魔なハエを追い払う感覚なのだと思う。もしかしたら意識にも止まらぬ出来事ではないかしら?

 人間は変わってゆく。ヒトの脳も、産業革命による急速な文明の発達以来どんどん変化してきたであろうと思っている。そして現代の変化、変貌の速度の激しさよ!

 不変な心情、信念などを人間は保ちつづけ得るのかしら??

 時々思っていた。新幹線開通を楽しみにしつつ半世紀ほど前に死んだ父。新しもの好きの父が、今、この現代を見たら何を思い、何と言うであろうか?と。

 わたくしは思った。なにも明治の人を持ち出すまでもない。わたくしと言う親譲りの新しもの好きも、今ア然ボゥ然としたではないか!ある意味すごく面白い体験だった。

 その夜の会合は20~50代のサガンの人々10人ほど。新鮮で楽しかったものだ。この話も披露したら皆さん一様に驚かれた。ほぼわたくし同様な受け取り方で驚かれたようだ。

 「各人による個人的感度」世代もふくめ、その格差もどんどん広がりを見せているのでしょうと思われる。

 本棚に今もあるはずの寺山修司の本「書を捨てよ、町へ出よう」を思い出す。せいぜい街に出よう、とにかく、わたくしは未だ生きているのだから・・・・


2017/9月


 姉との2週間の旅を終え2~3日前に帰宅した。新大阪~浅虫温泉(青森)~旭川~富良野~弘前~青根温泉(宮城県・蔵王白石)を巡り最後に貴重品一切を失って姉の部屋(シニア施設内)に帰宅。その後、お腹をこわしてわたくしも施設内クリニックのお世話になる、と言う実に苦難、大奮闘の20間であったんです。

 後日、貴重品は(自身と姉の預金通帳とそのカード・健康保険証・ジパング会員証・多めの現金)最終宿泊地のホテルの金庫より発見され手元まで送付された。

 旅のラストは蔵王、青根温泉だった。仙台まで迎えてくれた車で宿に到着した折り、本当にホットしたものだ。責任が終えるように気が緩んだのをハッキリ覚えている。

 そこに3泊したのだけれど、2日目に部屋を変えてもらった。その際金庫から持ち出すのをすっかり忘れていたのであった。翌日にはその部屋は塞がっていた。でも、後に入った人々は金庫を使用しなかったらしい。わたくしはラストの部屋のみを大捜索をして諦めていたのだ。

 翌日入室し、利用しようとた客に発見されたとの報告だった。

 宿からは手落ちでしたとの詫びも頂いたが、モチロンそれはこちらの落ち度。とは言え、もうそれはそれは心労と苦難の日々でした。
(1番の苦しみは、姉の心身の衰えを日々間近に見聞することだったと思える・・・・。)

 すべて自ら選んだ計画、それにしても疲れました。何しろ子供時代から失せ物・落とし物得意・そそっかしさで人後に落ちぬ人間が姉の責任を担って長旅をしたのですから・・・・。

 昨日雨の中、S藤講師のご好意で車同乗。最終日でしたが予定通り、主体展を上野で観ることが出来ました。氏およびクラス会員の作品にも対面出来ました。みなさん、今を精一杯生きていらっしゃる。その表現が画面から体に響きました。

 さぁ、わたくしの日常も手元に寄せられたようです。旅の素晴らしかった風景、見聞。こころに残るそれらの輝き。逢うと元気のでる友人(年齢に関わらず付き合う数少ない人々)をわたくしのは持っている。幸福だ。

 どこまで続くか解らないわたくしの旅路。楽しむ思いを忘れずに歩もう。出来るだけ自分の足で。


2017/8月 『草原の輝き』 ウィリアム・ワーズワース


 誰も取り戻せはしない
 草原が輝いていたあの頃を
 花が満開のあの頃を
 でも嘆いたりしない
 それより強さを見つけよう、
 後に残ったものの中にある力強さを

 6月末、テレビでアメリカの古い青春映画「草原の輝き」を観た。好きだった監督、エリア・カザンによる、ウォーレン・ベイティ、(当時はビューティと称していたし、それが又お似合いだった)とナタリー・ウッドが主演、1961年の映画だった。

 1920年初頭のアメリカ中西部の町に過ごす男女高校生。その青春は輝き、痛み、その終焉は切ない。二人はそれぞれに大人への人生を歩みはじめる。見終えて、良い作品だったと改めて考えさせられた。

 ラスト、互いに異なる伴侶を得たふたりの再見とわかれの場で、ワーズワースの長編詩「草原の輝き」の一節が流される。映画でこの詩をはじめて知ったあのころ、気に入ったわたくしは良く口ずさんでいたっけ!

 当時はもっと古風な訳文だったが映画の再見以来ふたたび、こころに始終この詩が繰りかえされる。年老いた今、やさしく力強いセンチメントとして改めて胸にひびき、こころ癒されるのだった。
 
 わたくしの胸にも、小さくて深くかがやき続ける草原がある。それはこども時代、親姉弟との思い出であり、夫と、子と、友と過ごしたひととき、旅先の一瞬。本・映画・舞台・絵画・音楽すべての芸術・自然・など、など、など・・・・・・。

 賜物であるすべての幸福だった瞬間・美しい刻。その輝きは豊かに尽きない・・・・・。

 胸にひそむこの輝きを見つめよう!その歓びはわたくしに和らぎと励ましを与えてくれる。それはあたかも、「生きる意味の根源をみつめよう」との問いかけにも思える。

 わが心に今も輝く草原よ。生きる歓び、生きる力よ!


2017/7月 償い・あるいはツケの支払い


 昨夜姉の許から帰って来たばっかりだ。居間はベランダの照り返しでひどい暑さだけれど、どこか自分を取り戻す。

 姉を訪れると、滞った雑務がかならずの様に見つかった。それらを処理するには心引き締めて掛からねばいけない。気がつくとわたくしと違い、豊かなる者の悩みもあった。先月など、昨年棲んでいた家を売却していた件で、当月28日迄期限付き申告書が待っていた。

 驚いて税務署に問い合わせると、昨年の不動産売却にともない、本来は3月に提出すべき申告書。従って期日に遅れると事態斟酌の条件はいっさい適応されぬ税が課されるとのこと。担当者からその事実を知らされたのである。しかし親切な対応だった。税理士に依頼するべき事柄だとも知らされたのである。

 お陰でわたくしの6月は大わらわ。調べて見当をつけた会計士事務所にさっそく電話した後、気づく限りの必要書類をなんとかまとめ上げ、知る限りの収入明細を作成した。それを持ち、梅田まで出掛けて依頼を果たした。

 ネットで知り、電話での対応の確かさを頼りに決めた事務所は、立派なビル内の公認会計士事務所であった。それにちょっと驚いたものだけれど、所長、担当者ともに信頼と好感を持てる人々だった。とても安堵したものだ。

 6日の帰京後はメールと電話のひんぱんな往復。わたくしのかき集め、計算して提出した資料はもちろん不備であった。会計士さんからは様々な問い合わせをうけた。書類収集の要も生じた。ことに資料として必要な姉の個人情報を得るための手間暇。ホント苦闘と緊張の日々であった。

 6月23日、優秀な会計士さんは統べての事務処理を終え確定申告を提出してくださった。その連絡を受けた時には安堵と共につかれがドット押し寄せたものである。しばらく虚脱気分がつづいた。

 譲渡所得には特例が2つ適応されたとのことで、納税額は予想をはるかに抑えられていた。公明正大に報告したし、結果的にはすべて最良の事態で終了したと言えよう。考えてみると、言わば人ごとでもあるのに、お金の少ないわたくし大慌てしちゃったのだ。相変わらずのこっけいなドタバタ。

 でも丁度行き会わせた折にそれを知ってほんとうに良かった!!!
遅れていたら姉は(あー面倒な書類が来ている。あとで処理せねば)と脇に置き、そのまま放置されたでしょう、多分。そのように近頃の姉はのんきで面倒くさがりのなまけ者になっている。

 今回の訪問で委細を報告(かなり得意になって)しても「喜代ちゃん、ほんとうに良くやったわね。よくそんな事が出来たわね。ありがとう」とおおいに感謝、ねぎらいの言葉をのたまわり、子どものように笑っている。

 今も記憶にあざやかな100才を超えた母の最晩年のある日。来訪した友人と老いによる衰えを語り合っていたが(だから秘書がほしい)と冗談を言って笑っていたのをハッキリ憶えている。印象的だったその事を姉に話し「お姉さんは良いわね、こんな優秀?な秘書が居て」と言うと姉も無邪気に同感し、二人して大笑いするのであった。
 
 わたくしがこんなに一生懸命になるのはむろん姉が好きだからだけれど、精一杯の償いをしているのだ。旧満州、大連からの引き揚げ者であるわたくしの家族の戦後は大変であった。銀行のお金も封鎖され、引き揚げるまで1年半の間、わが家の物品を売り食いする生活だったのである。

 でも一部の技術者をのぞき、多くの日本人が仕事を失っていた時代だ。そのとき、何が父を立たせなかったのか?後にその心境を知りたいと切に思う事柄だが、父は街に立つことをしなかった。戦時中にはご近所が心配して忠告をうけるほど、並外れてリベラルな人であったのに、、、、。おそらくは潜んでいた武士のプライド。信じられないけれど、それをしか想像しえない。

 敗戦後まもなく中国軍の命令で、わが家には4所帯が奇遇していた。ガスも機能しなくなっていた中、日々火鉢でコーヒーを淹れていた父を憶えている。

 あの時、わが家で売り食いの生活を担い街に立ったのは母であり、少女の姉であった。そのうち、デパートのショウケース1区画を借りての商いで、6人家族はぶじに日本の地を踏んだのである。

 引き上げ後も当分苦難はつづいた。その間わたくしと言えば、こども時代から母によく叱られていたことば「喜代ちゃんは、いつも心ここにあらずだから」「依頼心が強い、他力本願だから」そのまんま、現実から浮遊した思春期を過ごしていたのだ。空想に捉われて時をやりすごしていた。

 敗戦下の大連、はじめて踏んだ日本の土。おもえばあの10年間ぐらい、日本人の多くが貧しかった。[赤信号・みんなで渡ればこわくない]まさにそんな時代だった。そんな時代だったからこそ、わたくしの現実離れもより昂揚したのだと今は思う。

 ことばにして近頃わたくしは姉にはっきりと伝えて居る。「お姉さん。わたくしは恩返しをしているんですよ。あの頃のこと、長い間ずうーっと気がつかなかったから」姉はこころから「ありがとう」と言ってくれる。

 さて、わたくしの果たすべき償いの期間。いつまで続くのかしら?償う力はいつまで残されるか?? やさしく表現すると(償い)ラフに言うと(ツケを払う)わたくしには(ツケを払う)のほうが向いているでしょう。

 小学生以降苦学して大学を終えるまでずっと優秀だった姉。じつはすこし苦手でもあった。敬して遠ざかるの感あった姉に今や、「お姉さん依頼心が起きてますよ」「他力本願になってますよ」と注意する間柄になった。立場の逆転を笑い合いつつわたくしが、姉の自覚を促すちかごろ・・・・。

 しっかりと忘れずにツケを払い続けられるわたくしであろう!それをこんなにも喜んでくれる人。姉が姉であり続けますように!笑い会いつつ支え合おう!!


2017/6月 ことばに生かされる


 この汚れた大都会にも風わたり、太陽にそよぐ緑はきらめきを放つ。自然がもっとも麗しい季節5月。風邪を引いたのをきっかけに、わたくしはだらだらと貴重な季節を家の中で過ごしてしまった。それなりの日常に対処する気力が持てなかったのだった。

 5月、良くない出来事が重なった。生きていれば誰しもこんな時期はあるでしょう!と、わたくしは半ば居直った。さいわい本を手にすることは出来たし、好みの映画も上映されていたので時には出掛けてどうにか乗り切ったと思える。

 ちょっとした危機を乗り越えたので、月末から姉の顔を見に出掛ける予定も立てた。

 今回はわたくしの苦手とする姉の経済問題にも立ち入り、結構大切な整理を手伝わなくてはいけない。気の重いしごとが控えている。長い低迷は、じつはこの問題との直面を避けているのが大きな要因にもなっていたらしい。その自覚も今は持っている。

 無為に過ごしたかのこの3週間、しかしたぐいまれな豊穣に包まれもした。そう、人が紡いだ(ことば)による世界に心を馳せ、1932年からのヨーロッパ各地を幾十年も経験した。ときにドイツの科学少年となり、ときにフランスの盲しいた少女となって。

 アンソニー・ドーアの長編[すべての見えない光]の類い希な世界をわたくしの非力なことばでは表現しえない。もちろん好みの問題でしょうが、これほどに心深くこころに分け入ってくる作品と出会うと(ウツもまた良きかな)との思いを抱いたりもしたのである。訳者にも深い感謝をささげた。

 映画は恵比寿ガーデンシネマでみた「マンチェスター・バイ・ザ・シー」と「僕とカミンスキーの旅」
が良かった。ことに「マンチェスター」は地味な共感にこころ浸された。台詞に血が通っている。アメリカでこんな作品が今作られていることにも感嘆する。

 アンソニー・ドーアもアメリカ人作家だ。ささくれた現代をより暗くおびやかす元凶の1つは、アメリカのトランプ氏就任だと思っているが、その国で創られる芸術はまだまだ大丈夫。

 人の魂は、人が宙に紡ぎ出す「ことばの力」美しさによって、まだまだ昂揚されるのだ。
 


2017/5月 のどかな悩み


 この年をして最近、幸運な出逢い合いを重ねてる。
先ず Iさん。先月パリから帰国して個展を開いていた旧友に紹介された。なんと十数年会社員生活を経てシャンソン歌手をめざすことを決意して退社、パリに渡る。以後ソルボンヌ大学で学びつつシャンソン歌手になったとの経歴だ。よきピアノ伴奏者も得て着実に成果も得ているよう。しなやかに強いその生き方にこころ打たれた。

 たぶん、50代後半の彼女とは同じホテルをとっていたが、翌日も行動を共にする成りゆきとなった。会話、行動ともにつかず離れずの距離がほどよく感じ取れる。

 (貴女の歌を聞いてみたい)とその時話したら先日CDが送られて来た。聴くと大人の歌で本人訳の詩(ことば)が特に良い。じつは数十年来日本で歌われるシャンソン、どうも情緒過多の思い入れが過ぎるように感じていた。だからながく離れて居たけれど、今度 Iさんのコンサートが日本であったらぜひ聴きに行こう。

 もう一人の方、Sさん。これはもう奇遇だと思える。かねてアトリエの会員 Oさんから(短歌のお仲間で親しくなった、すばらしい方のお宅にお呼ばれしたけれど、どうも高橋さん宅のすぐ近くらしい。)と聞いていた。

 先月さくらの季節、例年の一人行事で近辺のさくら散策をした。ふと、Oさんが言ってらした「お庭の木々が素晴らしく、藤棚が在る家」の言葉を思い出し好奇心で「藤棚のある家」をさがしつつ歩く。

 このせちがらい時代に、緑のひときわ溢れるそのお宅はすぐ見つかった。そのSさん宅の玄関先の角に当たる路地からは、6Fにあるわがベランダがほぼ真向かいに見取れるではないか!まさに歩いて1分の距離!その日Oさんに「藤棚宅発見」のTELを入れた。

 あれから一ヶ月、Sさんには椿の黒侘助を手折っていただいたり(初めて知る深い紅は、一重で凜と美しい)樹齢60年のあでやかな藤も2度みせていただいた。先日Oさんと共にわが家にお呼びしたら、夕方から深夜2時まで10時間におよぶお酒盛りに相成る始末!!。

 Sさんがお気に入りの大吟醸を抱えて来て下さったのだけれど、残りはほんの1~2合。正直応えたものです。

 ながく生きていると、天性のん気な面があり、かつ抜けているわたくしもさすが(合う・合わない)と相性をみる選別の目は厳しくなってしまう。会話で知る(3人みんな、実によく語った長丁場でしたので)Sさんの生き方はとても気持ちよく、みごとにご自分を持して居られる。

 たしか70代半ばでしょうが意思表示に曖昧さがほとんどなく、しかも相手の考えも充分尊重して居られると感じさせられた。なにしろ器量がおおらかで、自ずと敬愛の念が起きてくる。

 じつは人付き合いでわたくしは2度ほど、ほんとうに辛く不快な思いを経験したことががある。でもそれを相手の所為のみにはしてはいないつもり。{先ず相手の本質・気質への認識が欠けていた。さらにわたくしが相手にどう思われているか?相手にとってわたくしはどんな立場にあるか?}未熟なわたくしはそんな基本に気づいていなかったのだった。

 わたくしには近しい友はほんとうに少ない。その方が生き安かったのだ。そのわたくしが、人生最終章あたりに来て、気質の合いそうな飲み友達を間近に得たように思える。気を付けてたいせつにお付きあいしよう。

 ふと声が聞こえた。「あなた、また失敗しないように」18年ほども前の夕食時、夫の声だ。あれは心許し合う友 H子さんとつき合い初めたころ、嬉しくて彼に話した時だった。その昔、友人関係での手痛い失敗を夫に愚痴ったことがあった。以来新たに親しむ女友達をもっていなかったから、愚かな失敗談を知る夫のからかいと忠告だった。
 
 「栄一さん、今度も大丈夫ですよ。きっと良い飲み友達になれますよ!」ひさしぶりに夫に笑って報告した。嬉しい。

 でも実は大きな問題が残っている。Sさんは猫を7~8匹飼って居られるとのこと。わたくしの弱点は「猫こわがり・猫嫌い」こどもの時から触ることは無論、見るのも怖ろしく避けている。こればかりは気をつけて直るものでもない。

 むろんSさんは猫を怖れるわたくしを了解してくださっている。だから麗しの季節、藤棚の下ガーデンチェアーに座しての先日のつどいは、シャンパンでの乾杯もふくめて最高だった。

 でも会話は盛り上がりを重ね、刻がたち少し冷えてきた。あせりが来たけれどトイレの借用もできない。思わず近くのスーパーに行こうかしら?とも考えた。結局お二人を置いて家に駆け戻り、その後わが家にお迎えしたものだった。

 寒い季節になったらどうしよう?物ぐさでだらしない私生活やっぱり隠したい。つねに門戸開放の器量なんてとても、とてもわたくしには・・・・・・。

 のどかくも厳しい、麗しのこの季節の悩みよ。


2017/4月 エイプリル・フールズ・デイ


 先月九州・沖縄への旅をした。近年の例となった姉との二人旅で。
2週間、ローカル線を利用したり、沖縄への往復は一夜ゆられる船旅。限られた刻を、限られているからこそぜいたくに使った。老人とてなにものかに追われるごとき今の世、ゆるやかに流れる南日本のうつくしい風景にこころ清められたものだった。

 熊本でのことを話しましょう。熊本市は母が女学生までを過ごした故郷、そして羅災した従姉が仮設住宅住まいをしている。遠地だし、わたくしは従姉と長年疎遠になっていたが、姉は母の分まで従姉を心配していた。最晩年の母が突然のようによく語った故郷でのむかし話し。かねてわたくしも一度は尋ねたかった地、熊本。母の命日をはさみ3泊をした。

 先ず半日を母の生まれた土地で過ごす。地形は大きく変わっているそうだけれど、郊外のなだらかな山、大きな川を望む住宅地をただぶらぶらと歩き回る。

 和菓子屋さんの店先のベンチで、ゆっくり酒麹入りあんまんをたべたり、地元のお店を覗いたり、ただに母を追慕するかの徘徊であった。先祖の菩提寺もおとずれた。大きな墓石が崩れ落ちていて震災の酷さが見られたが、行き交う大人やこども達、みなおだやかで礼儀正しい。小学生がみんな「今日は」と挨拶すのに驚かされた。

 美しい母の故郷であった。そのことに心やわらぐ。

 翌日、昔かたぎに粗末な家にむかえるのを羞じ、自身がホテルまで出向くと言う従姉をとどめて仮設住宅を訪れる。

 想像を超える矮小な家に88才の従姉は暮らしていた。居住者の人数によって決められている空間はせいぜい25㎡ぐたいでないかしら?。入ると直ぐにキッチン、流しは45x55cm位、傍にレンジ1台とまな板が置ける程度のコーナー。トイレ・お風呂も押し込んで備えられているが、息をのむ生活場所だ。

 定年までデパートに勤め、結婚もしなかった従姉はしかし気丈だった。(羅災した家は規制で建て直しをせねばいけない、この年齢でそれは無駄だから、期限の1年半先までに何とか良い有料施設をみつけて入ることにしている。けれど、そんな施設も入居希望者であふれ中々むつかしい)とほとんど愚痴もこぼさないのであった。持っていた貸家も失っているであろうに、、、、、。

 緑内障で目はひじょうに悪く、通っていた良医のいる病院への通院は大変らしい。しかし、嬉野に居る妹が姉を気遣ってよく来てくれるとのこと。先行き妹も熊本の姉宅での同居生活を予定していたのだけれど、、、、たんたんと語る。涙は流さない。

 その約3時間の間、彼女はずっと正座していた。70代から膝が悪かったが水泳指導を受け、クロールなども出来るようになりどんどん良くなっていたとのこと。姉とわたくしは、ただに感じ入るのみだった。この真っ直ぐな靭さはどこから沸き出でるのか!さらにこの穏やかなものごし!!

 そう言えば従姉は長女。母のたった独りの兄であった父も早くうしない、戦後のわが姉以上にあのくるしい時代を生きたことであろう。少女時代から伯母の片腕として家族を支えたに違いない。

 当初わたくしは訪問すべきかどうかためらっていた。震災後(お母さんが生きてらしたらどんなに心配なさるか・・・・)と言う姉を見舞金ですませ、今まで止めていたのだった。裏のバス停まで杖を支えに、従姉は見送ってくれた。

 何ということでしょう。見舞いに行ったわたくし達こそ励まされて帰った。今では姉との合い言葉は {徳枝さんのことを思うと私達の問題なんて!}。凛として生きている人の清々しさ。わが従姉ながら深く尊敬している。

 かねて思っていた。わたくしの様な気ままな生き方をしていると、問題になっている(孤独死)なんて当たり前の事柄。そう、自由は躯の中をヒユー、ヒューッと風が吹き抜けるような孤独を知ってこそ得る(わが世界)だ。それに、究極として(死)は独りでむかえるものでしょう、孤独なのは当然。わたくしなりの覚悟はできているつもり・・・・。と。

 今日、ひとつ実行した。尊厳死教会に入っているわたくしは外出時いつも(会員証)を携帯している。息子や掛かり付け医院にもそれは強く伝えて居た。でも、かねてこれでは不充分だと気懸かりもあった。

 先ず、折良く届いて居た会報の表紙裏面(尊厳死の宣言書)部分に自身の会員ナンバー・署名等を明記した。それをカットして透明にファイルする。それをブルー・リボンでちょっとお洒落させ、玄関ドァの飾り付けハンガーに吊した。何事かのおり、此処なら否応なしに目に入るでしょう。けっして陰鬱な圧力をかもすことなく小さなアクセントに止まっている。それも確認した。

 偶然のエイプリル・フールズ・デイ。たのしい仕掛けをしたようで何かしら心軽やかだ。


2017/3月 タルコフスキーを巡る


 数十年ぶり、映画館でのタルコフスキー鑑賞だった。未見に終わっていた[惑星ソラリス]が観られるのだ。
入館してまず観客の多さにおどろいた。老若男女を問わぬ観衆でほぼ満席の中、呪縛されたかの3時間であった。

 映画史上名高いSF映画であるが、ひと言でいうと哲学する映像だと思った。たぐい稀な美と静謐感を画面は、不意にブリューゲルの雪世界を再現したりする。自然も人も動物たちもスクリーン内で儚く存在して消滅する。釘付けになったこの長まわしのシーン、気づくと眼がにじんでいた。

 この映画に関して感想はのべまい。おそらく人によって受け取りかた、評価も大きく分かれるでしょう。
72年剬作を前提としても彼の作品はおそろしくテンポがゆったりと展開する。だから先ず「退屈」の声が聞こえそう。しかし、前記のように否応なしに哲学させられる映画なのだと考えている。

 わたくしはこの映画をスクリーンで見るよろこびに幸福を感じた。渺渺と宇宙にただよい、この世界の中での人の営み、自分自身を「孤独」な視線で見放すようにみつめた透徹の3時間。静謐がみずからの中にも満ちてくる。タルコフスキーの象徴である、美しくおびただしい水のように。

 つづけて[鏡]に入る。[惑星ソラリス]ほどではないがこちらも大入り。老男が多めかしら。
厳しいソ連統制下にあって、やっと前作[惑星ソラリス]が世界に放たれ[鏡]は75年作とあった。
たぶん77年だと思う、わたくしがタルコフスキーとこの作品ではじめての出逢ったのは・・・・。

 前作よりさらに哲学的難解の度を深めているが、再びの[鏡]はやはり圧倒的にうつくしい。わたくしは[鏡]を長編詩のように鑑賞した。じっさい、セリフの少ない画面に彼の父、著名なウクライナ詩人の詩が彼の声で繰りかえしながれる。

 鏡に投影する、計り知れぬ過去と今。すべてが鏡の様に写し合い、ときに遡り不意な反転をも繰り返す現世(うつしよ)。それを見つめている主人公(タルコフスキー自身であろう)の眼。夢や追想は反転・反復・反射を重ね、画中で時は4世代を脈絡なく交差し浮遊するのであった。

 (文字とおり横たわる若き日の母がベッドで浮上する画面が数秒あり、昔のわたくしはその美しい表現に衝撃をうけたものだった。あれは世界をもどよめかせたらしい)

 ともかく人は想像力をかきたて、思考を研ぎ澄ます深みに導かれる。そのかたわら、夥しくも静謐な美そのものに心うばわれる。ほとんど酔わせようと韜晦をしかけてくるかのよう!。どこを切り取ってもたぐい稀な映像美!。とわたくしは感じる

 上等な半日だった。ゆたかな心で帰途につく。たしかにどこか酩酊の心地があった。

 前述したように初めて[鏡]を観たあの日、わたくしは興奮した。帰宅するとたしか高一生だった息子に[鏡]の素晴らしさを激賞して聞かせたものだった。血のせいでしょう彼もすぐ反応し、直ちに観たようだった。折から期末試験中だったと言うのに、、、、。その記憶がある。

 そして今、あれから37〜8年。息子はその後自身で選び法科にすすんでいたが、就活時期、親に申し出てきた。「映画監督になりたい。その道に就職したい」と。夫の失望は大きかった。ずっと目をかけて下さっていた中学時代の師の影響もあり、彼に別な期待を大きく持っていたらしい。「あれは君の影響だ」と、ひと言1度だけだったが、わたくしもなじられた。

 夫の落ち込みはしばらく続いた記憶がある。でもわたくしの方はあまり驚かなかった。やっぱり・・と感じた。あの頃の息子なんて他愛ないもので、わたくしには心のうちまで透いて見えるような存在だった。進路に悩んでいるのが見取れる日々がずっと続いていたから・・・・。

 具体的な見聞も例にあげた上「芸術を目指すのは、もしかしたら一生貧乏にすごし、結婚生活もこわれたりするかも知れない。そんな覚悟も持てるなら」とのみわたくしは言った。
その道に就職後2年ほどして家を出るまで、わたくしは彼から在宅費を容赦なく徴収したものだった。

 以来映像の世界で生活し、彼のメールアドレスには当初から「tarukofu」の文字が入っていた。現在もしがないテレビ・ドラマの世界でプロジューサーをしているが、たまには良い作品をつくる。夫が逝く数ヶ月前のお正月、彼が企画からはじめた作品はNHKで放映され、それは夫をとても喜ばせていた。

 失った夫との時を思うとき、この最期のお正月の出来事は悪妻であったわたくしの心をすこし休めてくれる。

  同世代人であるタルコフスキーとは畏れながら共通事項がある。[鏡]で前庭で少年時代の彼がめくるのはダビンチの画集。その後、木立からの風のざわめきが置かれた画集のデッサンをそよがせる。これも自然と心象の描写として実にうつくしい場面だ。

 今回もまた思った。(あの画集わたくしは見ている)子ども時代、家の本棚をわたくしは貪っていた。たぶんドイツの製本だった。むかし、父が旅した折持ち帰ったと思われるたくさんな画集の中の1冊。ややセピアがかった古い本を同時期にわたくしも大連で見ていたのだ。再びそれを思う。

 あれらの本やトランクに収まっていた絵はがきのせいか、こども時代からわたくしは言わば西洋かぶれだったのだ。

 むろん比較するわけではないが、彼もあまりロシア的でない部分が大きい。正教徒であるが思想はかなり西欧的であったと読み受ける。やはり父親の影響らしい。その父との幼時の離別。貧窮の生活。戦争。現在進行中の自身の離婚問題。ソ連統制下の表現に苦闘を強いられるが、その抵抗はしたたかで強靭だ。

 [鏡]の影響によるか、タルコフスキーを巡りわたくしの中で飛翔する思考の反射、反復、遡行、の繰りかえしは尽きない。春未だし、夜は長いけれど困ったものだ。


2017/2月 疾風怒濤の逃げ月入り


 2月入り、それはわたくしとしては正に疾風怒濤のごとく展開した。と言えよう。年頭に決心していた。今年は区の税務相談日に資料を準備して出掛け、自身で確定申告の記入、提出を果たそう!と。

 じつは夫が亡くなった年、税理士さんに依頼して申告をしていたがその後は「申告するほどの収入も無いわけだから良いんじゃないかしら」と都合の良い言い訳をして長年、横着を決め込んでいたのです。恥ずかしい実情であった。

 築後4半世紀近い所有アパートは、大きく手入れを予定していた夫が急逝ののち、費用がずいぶんと掛かった。さらにその半分は義理の息子に進呈している。「年金は少ないし、税金がかかるほど大した収入ではないでしょうから」と横着を決め込んでいたことをここに告白します。

 2月1日、電車に乗って等々力駅まで出掛けた。区の出張所は駅のすぐそば、しかし相談者は大勢で順番待ちが長列をなしている。担当者も12~3人は居て、持ち時間30分と決められていた。腰掛けてすぐ、わたくしは熱心に準備していた収入と支出の領収書、その集計書を忘れてきている事にきづいたのだった。
(気を引き締めて臨もう)とあれほど決意して用意したつもりだったのに、このざま、、、、。

 けれど直ぐ思い直した。(わたくしの申告そんなに簡単なものではなさそう。今日は率直に実情をのべ相談するのみにしよう)と。

 そして正にその通り、担当の若い女性税理士さんとのやりとりで、最後に申告を果たした年からの現状報告。いかなる書類を用意、整備すべきか等々のテキパキした助言を得て終わってしまった。

 纏めるべき事務、それはわたくしから見ると大変やっかいな大仕事に思える。おそらくは再び夫が委ねていた会計事務所におねがいする事になるであろう事も予感されて、30分は終了した。

 でも1つ大きな問題のメドが立った、少し前進させたのだ。おもてに出たら駅前小公園に面する小さなスタンドがあった。店先でコーヒーとたばこに寛ぐ。ささやかな達成感もありホッとする。すると、餌をもとめてなんとセキレイがすぐ傍らまで来た。愛らしい。「今日から来ている」とお店の人。ラッキー。

 自由が丘駅までさんぽがてら歩くことにして途中郵便局により、送金と記帳をすませた。後に待つ人がいたので椅子にかけて通帳を確認する。と、すごく嬉しい発見があった。昨年のアイルランド行き費用をカード支払いで姉に立て替えていたがその入金がされていたのだ。

 お正月訪問した折、用意すべきだったのに姉はお金を下ろし忘れていた。その謝りも込められていたのでしょう、振り込み額は思いっ切り弾まれていた。わたくしにとっては思いも寄らぬ大金である。「嬉しーいっ」飛び上がらんばかり喜んで通帳をしまう。

 気持ちうららかに、ひさしぶりの自由が丘の街をめぐり、用も足すと(モンブラン)で10年ぶり位のお茶をしてバスに乗った。よく働き、思わぬ収入も得てとても心地よい。

 車中お財布をバックに戻す折、フト気づいた。「あっ、お決まりの通帳用長財布がないっ」姉からの気前のよいお小遣いに大喜びをしたわたくし。その通帳のみをいつもの(全財産管理収納用布製小ケース)に入れて立ち上がっていたようだ。

 帰宅後郵便局をしらべ電話したがもう6時半、通じない。最寄りの警察にも。だが届いていなかった、、、、。
わたくしは昔から忘れ物、落とし物の絶えない人だった。でも年を経てやっと自覚もふかまってきていた。

 特に近年は、しっかりしていた姉の捜し物の多さを見ていて自戒を深めていたつもりだった。もっとも大切な数冊の通帳、キャッシュカードはすべて長財布に入れていた。それを健康保険証とともに、手製の絹の小ケースにひとまとめにして常用していた。

 小ケース内はほぼ全財産の証。[わたくしは自身の管理能力に的した方法で、巧く管理している]と内心自惚れていたのだ。

 落ち込んだ。心配だった。まさか悪用はされないでしょうが、、、、???。もう食事どころではない。不安が増してオロオロするのみ。と、携帯がなった、息子からだった。とびつく!

 この際みっともないけれど話してしまいましょう。じつはわが息子、お金は在るだけ使ってしまう性質だ。だから毎月のアパート収入金の内本来彼に支払うべきお金を、通帳・カードごと、わたくしが預かり保管してきている。それもムロンあの長財布の中に管理していた。

 彼の抱えるしごと、連続テレビ・ドラマは4日からはじまる。プロジューサーとして時間に追われているにちがいない。その彼に(通帳紛失したから何処かから連絡が入るかも・・・)とは伝え得ずにいたのだ。

 「携帯に留守電が入っていて、、、、」と彼が言った。溜まっていた不安を噴出させて、わたくしは今日の出来事を報告する。と、こんな親を持つと人間も出来て来るのでしょう、慌てずさわがず笑って済ませてくれた。

 本人が近日中に等々力まで赴き受け取る。その後、わが家にも立ち寄ってくれるとのことで解決した。一件落着、2月1日なんとか無事終了。

 2日、友人と渋谷で待ち合わせ映画を観る約束日。逢う前に一仕事済ませたかった。じつは渋谷警察署に落とし物をうけと取りに行く必要があったのだ。数日前、映画館に落としていた手帖が署に届けられ連絡を受けていた。実は渋谷警察署の落とし物窓口なんて数10年来のおなじみ。自慢じゃないけれど電話番号だってわが家の電話帳には記入してある。

 ちなみに、利用バス会社の各営業所電話番号も控えているし、時に出番がある。問い合わせをする時には思わず声を変えたくなったりするけれど。

 逢う前に済ませ得なかった手帖受け取りを、友と一緒に赴いて済ませた。呆れつつも面白がって参加してくれた彼女だった。それから映画館にむかい近道をと、ヒカリエ・ビルを通り抜けて舗道にでる。風の強い日でビル風が真っ向から向かって来る。ストールや帽子を押さえこみつつ先を行き、フトふり向くと友がいない。あわてて引き返したら出口ちかくに佇み、空を見上げているではないか!

 スカーフが木の枝高くはためいている。風に奪われたのであった。彼女を警察にまで付き合わせ、ビル風すさぶ通りに引き出したわたくしの責任だ。木の下に友を待たせるとわたくしは、(東急・ヒカリエビル)さんの誠実さに賭け、事務所を求めて駈けだした。

 あの素敵なカシミア・スカーフ、高価だった。「求めるべきか、諦めるべきか」でひとしきり悩んでいた去年の彼女をわたくしは知っている。何とかして手元にもどして上げなくっちゃ!!

 長くなるから経過ははぶきます。舗道への別な通路と混合したり紆余曲折を経ての結果、約30分後に脚立に乗ったカフェのウエイターさんによって無事手もとへと・・・・。名も答えなかったさわやかなあの若いウエイターさん、「ありがとうございます」とドァに消えるまで見送るのみの二人でした。

 以上、まったくお粗末なこの2日間、疾風怒濤の2月入りでした。ご静聴?を感謝します。

ご報告
その後、ドキュメンタリー映画(ホームレス、ニューヨークと寝た男)を興味しんしんで観た。すると、ご本人マーク・レイが一郭でサインに応じるとのアナウンス。もちろん小冊子を購入してサイン貰いました。6年間ニューヨークの4階建てビルの屋上をねぐらに、格好良く(ここが肝心で、すごいところ)信念を持って自由に生き抜いた人です。現在57才、188 cmファッションモデル上がり、ミーハーの血は騒ぎました。ちなみに観察してみましたが彼は笑顔をむけ、肩に手をまわして写真にも気軽に応じていますがけっして、1度もファンの誰とも握手をする事はありませんでした。その事がとても胸に沁みました。



2017/1月 今年は「期待を抱いて生きよう」 


 開け放たれた2017年。とても遅ればせなんですが「お目出度うございます」と改めて言葉にします。
そうすることで、少しでも良い年であるよう「期待」を持ちたいと考えたからです。

 長年、世界特に日本は滅びに向かっていると思っていた。けれど一方では各方面,優れた知者達の力で、何とかそれを防ぎ助かる道が見出されるのでは!との思いも捨てていなかった。孫も持たぬ気軽な老人としてエゴに徹し「わたくしはいずれお先に失礼します。みなさま大変でしょうが、何とか後はよろしく頑張って・・・」と10年ほど前当欄に書いた覚えもある。

 未来を考えることから逃げていた。ずっと、それで済ましていた。

 でも作年末の晦日、映画館で出会った言葉「期待を抱いて生きること、それはつまり幸福であるということなのだ」には考えさせられた。予告編で見たパリの高校での授業風景。そこで哲学講師である女主人公が、アランのこの言葉を講じていた。一瞬のシーン、その一言がとても気になって帰宅後、哲学者アランの「幸福論」をネットで調べてみた。以下一部を引用させて戴く。

 「悲観主義は気分によるものであり、楽観主義は意志によるものである」

 「気分にまかせて生きている人はみんな、悲しみにとらわれる。否、それだけではすまない。やがていらだち、怒り出す」

 「ほんとうを言えば、上機嫌など存在しないのだ。気分というのは、正確に言えば、いつも悪いものなのだ。だから、幸福とはすべて、意志と自己克服とによるものである」

 「人間には自分自身以外に敵はほとんどいないものである。最大の敵はつねに自分自身である。判断を誤ったり、無駄な心配をしたり、絶望したり、意気消沈するような言葉を、自分に聞かせたりすることによって、最大の敵となるのだ」 等々。

 わたくしの様な感傷に流され易い人間には思い当たること多々。偉そうに言わせてもらえば、50才前からの4~5年苦しんだウツ状態期に大いに気づいた事柄でもある。当時はその気づきゆえ更に自分に絶望し、悔い、落ち込んだものだけれど、、、、。

 しかし今日まで興味をもたなかったアランの「幸福論」に俄然したしみを覚えた。明日は本年初の映画鑑賞に出掛けるつもり。ついでに忘れず、本年初の購入本として「幸福論」を求めよう。映画や演劇鑑賞にいそしむため、出掛ける習慣。慣れ親しんだ遊びのこの行為、それとて勝手ながら、思考し行動する時間と言えよう。

 大げさに発展させると、自身の残された未来を投げやりにしない事は、日本のそして人類の望む未来に期待を持って生きることに通じると思える。さぁ、「期待を抱いて生きる事を諦めず、理性的な思考を持って過ごす日々」を年頭に心して刻もう。大義名分も成り立ち、大手を振って遊べるのも嬉しい。??

 さて、大晦日から昨日まで姉と過ごした丸1週間、ほんの聞きかじりの「幸福論」豆知識を転居鬱?に落ち込みがちな姉にも話した。どうにも過去へのこだわりが強く、グチっぽく見受けるのである。元来わたくしよりずっと理性的な人であったのに、、、。しかし本質がそうだから考え方としての共感はすぐ得られた。自身を省みる様もおおきく見受けた。

 しかし、とにかく物忘れによる探し物が多かった。ある夜、翌日支払う予定の貴重な現金が失せて(と思って)2人して2時間あまりを費やして探し廻った。真夜中なので衰えた視力もよけい働かない。ラスト、通帳確認等をうながした結果、思い違いで姉は年末に用意すべく、大金を降ろしていなかった事が判明した。がっくりと疲労した。しかし安心した。

 本人も認め怖れている脳の衰え。ボケ予防には歩くことが一番と言われている、ことに山歩きが趣味だった姉は散歩を信条としている。自身の思い違いに落ち込んでいる姉にわたくしは言った。「あーぁ、今日は何時間もぜーんぶの部屋をあちこち探し廻ったから、ずーいぶんと歩いたわ。ああでもない、こうでもないとアタマも凄く使ったし、これで脳の衰えた分、みんな取り戻して快復したんじゃないかしら!」2人して大笑い!

 正月五日、今年何度目かの高笑いをする老姉妹の行く先は暗いか明るいか?
いえ、せめて自分の周辺の出来事は自らの責任、結果であることを自覚し得るよう、自覚し続け得るよう「期待を抱いて生きよう」