麗しの5月だった。弟と共にクロアチァほか4カ国をめぐったのは。あれから未だ2ヶ月しか経っていないのに、18日間にわたる日々が何処か幻のように遠い。
旅によるわたくしの長期不連絡は、帰国後、思いがけぬ速度で姉の落ち込みを進ませていた。そう見受けられた。だからこの2ヶ月、わたくしは姉への償いを心がけ、東京〜阪神間を往復していたものだ。
そんな気ぜわしい日々の中、折りにふれ旅先の風景・出会った人々が、ふと立ち上って来たものだった。
例えば、ドゥブロヴニクのホテルのベランダから臨んだアドリア海沿岸の暮れゆく海と空と地。息を飲む渺々と美しい眺望であった。そして、やはり暮れゆくウイーンの市街中心地。或いは、購入しようとしていたワインよりすっと安い地元ワインを勧めてくれた小スーパーの女主人だったりもする。
弟と共に負担する気楽さから、旅の最終地ウイーンでは贅沢をした。屈指の宿を取っていたが、幸運にもすばらしい部屋が用意されていた。首相メッテルニッヒからチャップリン・エリザベス・テイラー等、歴代著名人が止まった部屋でラスト4泊をしたのだった。
ウイーンの夕べから夜へと深まる空は、25年前とほぼ変わら蒼さを漂わせていた。すこし怖いほどの深い蒼。ほぼ毎夜弟の寝入った後、ベランダの椅子に座してワインを飲んだものだ。街の好ましい風景と行き交う人々。その暮れゆく佇まいに目と耳をうばわれつつ、物思う時を過ごした。忘れ得ぬ、あの「刻」
あるいは旅の初期、滞在ホテルのフロントから数十分間電話を掛けまくって貰っても取れなかった、クロアチァ首都ザグレブの宿。使い始めたばっかりの、わたくしのスマホはなぜか機能せず?あの時は本当に焦った。
フロントの青年スタッフ少しもは面倒がらず、10数カ所ものホテルに掛け続けてくれたものだった。その彼にはチップも弾んだっけ。
まるで全観光客が首都ザグレブに向かってでもいるかに、予約の取れなかったあの夕べ。外国での個人旅が初めての弟の心配を察し「地球の歩き方」を片手にわたくしは必死になったものだ。なんだか切羽詰まるような感じに襲われたモノだ。
でもやっと取れた。中心地からは外れるが、映画狂のわたくしに適した三つ星ホテル「ムービー」3泊が取れたのであった。各部屋にスターの名が付いていて、わが部屋はハリソン・フォードだったっけ。あのホテルのレァ・ステーキは最高だった!
先の短い?私たち姉弟は「量、質ともに恐らく二度とこんなステーキを口にすることは無いでしょう!」と話し合い、3夜の内2度も、ステーキを楽しんだのだ。
話が戻るけれど、わたくしと弟の初組み合わせであったあの旅。実はスタート時点、いえその少し前にわたくしはやっと気付いていた。
弟のこれまでの旅は、たとえば「飛鳥」での世界クルーズ旅行等、丁寧にお膳立てされ、至れり尽くせりのお世話係である添乗員つきであった。雑事はすべてお任せして、自身はひたすら楽しんで居られる旅であったのだ。
それに引き替え、集団生活が苦手なわたくしの旅は、航空券と出着地のホテル数泊の予約を取るのみで発つていた。今回は弟と共なので、間に入る土日の2泊も確保して、念を入れたつもりだった。
しかし18日にわたる日々、交通・飲食・観光・予約すみ外宿泊等をすべて自力で行わねばならないのだ。(今回の旅は、これまでの弟の旅とはあまりにもかけ離れているではないか!!)やっと気づいていた、この重大事実!!!
わたくしの方は、30数年ほど前から知人の絵描きさん主導で、小人数での自由旅を知っていた。それが好ましかった。とても!わたくしの気質に合っていた。
35年ほど前、フランクフルトの甥の家から、若い日に夢見たトーマス・マンの生地、リューベック他2泊の旅をした。それが、わたくしの初めての海外ひとり旅だった。
いらい、十数回に渡るであろう。独り、或いは二人での気ままなさすらいは・・・・
今回、呑気なわたくしにも旅を直前にした頃にやっと、弟の不安が見えてきていた。そしてそれは、わたくしに新たな不安と気苦労を抱え込ませてもいた。
子供時代のわたくし、宿題以外全く勉強はしなかった。本や遊びの世界にいつも心は上の空。落とし物、忘れ物もしょっちゅう。出来の悪い、役に立たない困り者であったのは確かなのだ。
深く愛していた妻をうしなった孤独の中で、姉の誘いに乗った弟。彼はわたくしほどノー天気ではないが、天性大らかな人だと思っている。しかし、いざ、こんな姉と旅立つ現実を迎えた弟の中の不安と構えは否応なしにわたくしにも伝わった。
機中早くも、今回の自力派旅に対する彼の予想を超える構えを察知させられる会話があった。そしてそれを知った事により、わたくしの中の不安や心痛は深まったものである
わたくしは心中多分にパニックを起こしていた。そんなストレスはどうしても過剰に反応してしまうわたくしである。なんと、ドゥブロヴニク観光初日に大失敗をしでかす始末。
ホテルを出る際、弟を待っていたロビーのソファにトートバッグを置き忘れ、ジャケットのみを抱えて発っていたらしい。しかし、バスをおりた時点で気づき、バス中に置き忘れたものと勘違いしてしまったのだ。
期待していた、中世のたたずまいが残る旧市街観光。それは、インフォメーション・バス会社・警察等、要所、要所に立ち寄る仕事から始まった。それにはやはり、貴重な時間を相当費やしてしまったものだ。旅の初日はこのような不始末で不本意に始まり、その間弟はわたくしを全く責める事が無かった。
それも、かえって辛かった、、、、、。
貴重品はすべて、身につけたポシェットに入れていたから切迫した問題は無かった。でも大切なモノはいろいろ在中。初日から弟を落ち込ませ、今後への不安を増加させたのは間違いない。
気を取り直しての昼食。ケーブルカーや徒歩での街歩きに疲れて帰ったホテルのフロント。そのカウンターの隅に、我が愛用のフェンディのトートバッグを見いだした時の驚きと喜び!!!
弟はわたくしを責めなかった。それだけに、わたくしには応えた。以後、こんなわたくしに頼らぬ姿勢が強く見受けられるようになったのは当然である。
公私に於ける、これまでの彼の人生。さまざまな面で仕切り、決定、先導してきたであろう。彼の男性としての主導権意識が立ち上がるのがはっきりして来た。それに対し、初日から大失敗をしでかしたわたくしは、自分の意見を述べるにどうしても遠慮がちになったものだ。
その後、萎縮していたわたくしとしては、恭順の体を示し、彼に主導権を委ねるようにした。だから正直なところ、さまざまな面でわたくしの旅は窮屈で不便になってしまった。
たとえば、方向や位置に関してわたくしは、「動物的な勘の良さを持っている」と自認している。幾度「こっちでしょう、その道は違うでしょう」の言葉をのみこみ、方向感覚の弱い彼の後ろをついて迂回する道を歩いたことか、、、、、。
弟にとって、不慣れな個人旅行の始まりのあの頃。全く頼りにならない姉を見いだし、日々ストレスを抱えていた彼の目には、わたくしの思い込みはげしく、ノー天気な面しか写っていなかったのではないかしら?
失意の彼に、リラックスして少しでも旅を楽しんで欲しいから誘ったのに、、、、。
落ち込んだわたくしは、おとなしく我慢していた。時々間違っていると思う道も、遠回りをして、おとなしく付き従ったものである。ストレスを抱えながら、、、、、。
しかし懲りないわたくし、後半やはり口を出しはじめた。10日ほどすぎた頃には弟も、わたくしの方向感覚の良さのみは、信じてくれるようになっていたようだ。
最終目的地ウイーン。ダフ屋から手に入れたオペラ座の初日チケット。良い席ではなかったけれど「サムソンとデリラ」を観ることができた。
エリーナ・ガランチャの、あの繊細で美しい詠唱は今も心をにこだましている。
そして顧みるに、たぶん生まれてはじめてであろう。何一つ落とし物・忘れ物をしなかった旅であった。
かけがえのない時期に、弟と、かけがえのない良い旅をしてきた。