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2018/12月 省りみて


 素晴らしいほどに早く過ぎ行った年であった。

 省みると、世界が、日本が、天災も重なりより困難な年であったと同様、わたくしにも相当キツイ年であった。

 個人的にはやはり、姉のアルツハイマー型認知症が確認されたこと。それによる身体の苦痛を伴なう心身症に振り回された5~6ケ月が、一番辛い時期だったと思う。

 幸い現在は随分落ち着きを得て、姉からの胸の痛みの訴えはほぼ無くなっている。どんなにありがたいことか。人柄の崩壊が見受けないのも嬉しい。

 これについては姉と常に関わている入居先施設の全スタッフ。朝、夕訪問してくださるヘルパーさんの力あってこそである。どんなに頼りとし助けられたことであったか!

 何より大切な日々、日常。それが大きく見守られている。この大きな拠り所なしに、わたくしは自身と姉を支え得なかったでしょうと思う。姉の回復もそのおかげである。それを忘れてはいけない。

 思い返すと5年前のお正月のこと。集いの席で、姉と息子にわたくしは至極真面目に、でも淡々と(もしわたくしが不治の重病、あるいは認知症に侵された折にはスイス等他国にある施設を利用しての尊厳死を選ぶことにする)と伝えた。

 その折2人に多少の驚きはあったが、反対は受けなかった。確かにお酒も交わる席の言葉でもあったのだ。けれどわたくしは本気だった。

 このことは、たとえ信仰を持たぬわたくしでも、宇宙を司る巨きななにものかの流れ、或いは大いなる自然に対しての畏れと、不遜の思いなしには考え得ず、また口にしてはいけない問題であると思っている。

 でも本気で考えを進めていた。2人に話す少し前、フランス映画(母の身終い)を観て、スイスに、尊厳死支援団体、会社があることを知っていたのである。
その後ネットで、オランダ・アメリカの幾つかの州でも法的に認められていることを確認したりしていた。

 その矢先であった。姉の衰えを見出してのシニア施設への転居、その後の手伝いが必要な時期。さらに、転居後見えてきた急な精神力の衰え、等々。いつの間にか自身のこの問題は、差し迫った問題では無い位置に譲られてしまっている。

 けれど懲りないわたくし、悔いてはいない。大きな恩もある姉に、必要とされ(と、思っている)役に立つ間はこの位置で行こう!昨年の橋田壽賀子さんの発言以降、尊厳死問題も良い意味で物議を醸しているみたい!

 (人生100年)という人類未曾有の時代を迎えている。好むと好まざるに関わらず、我々老人は現代社会の探求者だ。先駆者として生きていかなくてはならないのである(笑)。大変なのは当たり前(苦笑)。小説・評論等でも幾多の優れた書籍が発行され、模索・考察がされている。それも、指針として頼りになる。

 とりあえずわたくしは、毎月姉の許を尋ね得る心身を維持しよう。それがわたくしの励みだ。だから相変わらず遊びに勤しんでいる。

 過日、映画(ハンガリアン・ラブソディ)を観た。これには、内に潜んでいたロック魂?に火がつけられたかの感動を打けてしまった。

 怪しい記憶だけれど、確か30年ほど前見たフランス映画(汚れた血)の末尾で、ほぼ関連もなく、セーヌ河をゆく舳先でフレディ・マーキュリーが(ハンガリアン・ラブソディ)を歌っていた。1シーンだったが作品を象徴し、記憶に焼きつく素晴らしさだった。

 その記憶があったから、彼を主人公とする映画を公開時に早速観に行ったのである。友を誘っていたが、団塊世代の彼女も、未知の世界から得た歓びに興奮していた。それはわたくしの歓びに重なりもした。

 この映画、ラスト20分の演奏シーンを観るのみでも良い、とすら思う。歌唱力・曲・歌詞・演奏全てがジャンルを超えた素晴らしさだ。その圧倒的な美しさに打ちしびれ、涙は溢れてしまう。わたくしには、生き抜くための力をも引き出してくれたように思えるのである。

むろんこの映画は、映画としても大傑作だとわたくしは信じている。もちろん再見予定。
 
 (老いと共に衰えゆく心身)これも当たり前、当然のこと。受け入れ、見据えも心がけて、心身の働く間とりあえず楽しめることを楽しもう、美しいものに触れよう!。アンテナを立てさえすれば、好みの素材には事欠かない!!

 素晴らしいもの、美しいものは現代にも満ちている!!!

 幸い?わたくしは本来享楽的に生まれついている。はた迷惑だったのも確かだけれど、今は一人っきりだから迷惑もあまり掛けずに済みそう。

 情報、条件を調べつつあった、スイス・あるいはオランダの尊厳死を扱う団体に関する探索は中頓挫してしまっている。
今の姉を置いて、考えるわけにも行かないから、、、、。

 だがとりあえず、実行に必要と思われるお金(わたくしにとって、大金であるのは確かであろう)だけは、しっかり残しておかねばならない。

 さすがに、最期に至るまでのはた迷惑だけは慎もう。


2018/11月 飛騨高山を巡って


 先日、久しぶりの自由が丘で年の離れた女友達と待ち合わせた。美味しいフランス料理店で、食べ、かつ飲みつつ話し込み気づいたら4~5時間も経過していた。

 この日は重要ななテーマがあった。40代半ばの彼女は飛騨高山への移住を決めていたのである。

 サガンを退いてのちも続いている会員の方々とのお付合い。それは友としての交流、わたくしはそう思っている。だから、大事な局面の話は本気で聞き、問い、思考も巡らせ、見えてくる問題点には本音で接したい。

 移住を決断したものの、家族達に及ぼす様々な難問題を抱えることになった。当然である。それらの悩みを日々抱えこむ近状。長く生きてきたわたくしには、聞くほどに彼女よりも見えるものがあると思う。世渡りは下手だけれど、年齢に於いては不足のない人生の経験者なのだから・・・・。

 長時間の会話にもかかわらず結論などなかった。わたくしとの会話は、彼女の抱える諸問題の解決には一切ならない。結論はすでに出ているのだ。40代半ばでの大きな転換。彼女は自身が選択した結果を、自身の選択として今後生きて行くことでしょう!と思う。

 その強さと聡明さを彼女は持っている。わたくしは今も心からのエールを送っている。そんなことしか出来ない。

 ところで飛騨高山にわたくしはは3~4度行っている。好きな土地なのだ。彼女にもその折話したことだけれど、長く忘れていた第一回目の訪問時に仕出かしていた大変な失敗が蘇った。

 今を去る50年ほど前、息子が3~4歳のころだった。父が逝き、東京で独り住いをしていた母とわたくしたち親子3人。新幹線で名古屋を経て、鉄道を乗り継ぎ、午後も遅く高山駅に着くとすぐ、タクシーで宿へ向かったものだ。

 大阪在住の姉たちカップルとは宿で落ち合った。翌日からさらに山深く、平湯温泉までバスで移動して数日間を、スキーと湯で過ごす迎春の計画だったのだ。

1967年か68年、まだまだ日本中がつつましい時代だった。泊りがけのスキー旅なんて、結婚以来初めての贅沢!
確かピンクのスキーウエァを自ら作り新調した。その他家族の装いをも、ウキウキと整えた記憶がある。

 はじめての高山の夜は無事会合を喜ぶ夕食会と共に暮れた。翌朝、たしか土地の名物宮川の朝市を見物してから、バスの出発地に向かったように思う。駅の真ん前、小さな植え込みのかたわら、昨日タクシーに乗った場所だった。 

 その時、そこに、わたくしは驚くべき物を発見した。誰もいないその場所にぽつんと、わたくしのスーツケースが鎮座していた!あの時の驚き!! うろたえ!!!

 スキーに必要な衣類等を入れていたそのスーツケース。わたくしはそれを前日、タクシーに乗る時置き忘れ、なんと、それっきり忘れ去っていたのだXXXX!!!!

 しかし、幼い時から失敗事を繰り返しているわたくし。危機管理には意外と素早いのであった。多分、無事家族達の目をくらませ終えたように記憶している。

 いち早く(当たり前だ)見出し、問題に気づいたわたくし。驚愕しつつも素知らぬテイで、素早く我がスーツケースを携えた。(と、思う)その後も冷静を装って、やってきたバスに無事乗り込んだのであろう。(と、思う)

 そうでないと、喜代ちゃんと云う問題ある家族によって、一同カンカン、ガクガク・喧々諤々、長閑なお正月の遊興気分も台無しになる一幕があったはずだから、、、、、、。

 さらに今思う。多分息子のお陰なのでしょう、あの危機を抜け得たのは、、、、。

 あの頃可愛い盛り、チョコ、チョコ動き回る盛りだった。みんなに愛されていたから注意が、久しぶりに会う彼に集中していたと考えられるのである。

 「飛騨高山」あぁ、古き良き時代よ。のどけき地よ。良き人々よ。わたくしに取っては守られた地である。その後3度の訪問はいつも夫との二人旅だった。

 若い友にも、良き選択の地であると信じている。



2018/10月 カメラを止めるな


 相変わらず映画を見に行っている。週に1~2回出掛け、その日は大抵2本を観ることにしている。

 明日発つ、毎月の行事となった姉を見舞う1週間。当たり前のことだけれど、この処心身ともに弱りゆく姉を見守るのは、共に老いゆくわたくしにもキツイ日々でもある、、、、。

 そのハードさを直前に、余裕が必要だった。親しい友とも逢いたい。で、昨日見たのは(顔たちところどころ)と、友と散々話し込み別れたのち見た(カメラを止めるな)の2本。

 (顔たち)は仏・(カメラを)は日本の作品。
全く異なる傾向だったが、共に非常な秀作。特に(カメラを止めるな)には度肝を抜かれる感動を覚えた。

 観ていただかないと判らない作品だと思うから内容の紹介はしませんが、前半のゾンビ映画から、後半、突如その制作現場へ、、、、、。
疾風怒濤の映画愛にみちた、生きの良い、大傑作だと思った。思わぬ涙までにじむ。

 想うと、多分わたくしが見た最初の映画は、ふるさと大連で5才の時父と二人で見たフランス映画(白鳥の死)だ。パリ、オペラ座の少女バレリーナの目を通しての、プリマとの確執の物語だ。

 生まれついての映画狂なのでしょう、筋、画面、音楽も未だ覚えている。6~7年後、バレー講師の子供であった同級生が学芸会でソロを踊った時、ラストシーンで少女が舞った耳に残る音樂の曲名を知った。(ガボット)だった。嬉しかった。

 困った父である。偏愛されていたわたくしは、家族揃っての映画観賞とは別に、一人だけ伴われ、主として洋画に触れていた。なんと、(ボッカチォ)も見ている。多分就学前に。

 意味は解らなかったけれど、ベネチァの夜、仮面舞踏会のシーン等は鮮明だ。

 わたくしの、美しいもの、物語性の或るものへの耽溺は、こうしてより深められてしまったのだ。と後にして思う。

 かねて秀れた映画は総合芸術だと思っている。秀れたエンタメ映画も時代を表現する芸術であると思う。

 映画という趣味を持っていて良かった。本当に!
本や映画等に耽溺する刻を持つてきたから生きてこれた。生きてこられたようにすら思える。

 それらに集中している刻、わたくしは虚に在るのではない。現実に在ると思っている。その刻を生きているし、たましいも細胞も造られているのだと勝手に解釈しているのだ。

 人生も出たとこ勝負。深い、ノンレム睡眠時を除き脳内カメラは止まらない。

 明日も、やさしい顔で姉に向き合えそうに思える。


2018/9月 霧たちぬ


 すでに14~5年前になるかしら?亡夫と、富山から北アルプス立山連峯を巡り、越中おわらで風の盆を楽しむ2泊3日のバスツアーに参加したのは。

 あの頃の数年間、夫は若い頃の趣味だったカメラ熱を復活させて、良くひとり旅に出かけていた。安直なバスツアーを利用して、キャノンのカメラ2台とその他ゴチャゴチャと機器。結構な重量だからのちに思えば、最晩年も近かった夫の心身の健康を支えてくれていた事に思いいたり、感謝している。

 連峯を望むふもとでの休憩時、川から霧が立ち昇る光景に出会った。木々を、山々を、霧は靄となって連峯をつつみ漂い、天空へと涯てていた。形容しがたい美しさだった。厳かなひとときであった。

 川面から立ちゆく霧の漂いは、あたかも描きつつある水墨画のような、今描かれる筆さきのひと雫が胸に落ちてくるような。
わたくしの中で最も忘れ得ぬ大切な風景の一つだ。

 おわら風の盆観賞は、与えられた自由時間、わたくし達夫婦はそれぞれに別行動で過ごした。あの頃、ツアー旅に参加する折りの暗黙の了解事項だった。夫はカメラ目線で彷徨い、集団に弱いわたくしは、自分好みの目線でウロウロと。

 でも、夫はもちろん、わたくしだって、集団は充分に意識している。だから集合時間に遅れたことはなかった。けれど夫はいつも気にしていたっけ!暢気でわがままなわたくしを、、、、。

 あの時、ほぼギリギリの出発時間にわたくしがバスに戻ってくると、夫がイライラとバスの乗車口前でこちらを見ていのが見えていた。そしてわたくしを認める、トイレに行ったのである。心配と安心で催し、用心のため、行かねばならなかったたのでしょう。そういう人だった。

 そのせいでバスは確か1~2分ほど遅れた。わたくし達は恥ずかしかった。車内でお互いを責め合う、小声で激しい口喧嘩をしたっけ、、、、、、。
 
 さっき、気づくとタバコを持つ手が小刻みに震えていた。昨夜、1週間滞在した姉の許から帰宅してたばっかり。姉は小康を得ているけれど、わたくしの方が、先行きへの不安、孤独感に捉われてしまっていたようだ。あぁ夫に逢いたい。

 空を見あげた。暮れゆく空を、重い雲の層が墨水を流すように北東へと動いている。暗いが美しい。
ふと、立山連峰のふもと、川面から立ちゆく霧が蘇った。心に、しずかで柔らかい霧が立ち上り、うるおう。

 「逢いたいですね、栄一さん。逢ってますね、毎日。あなたに大事にしてもらってありがとう。バカだから気がつかなかったけれど、今、あなたはわたくしの生きる力です。あなたが居たから大丈夫、これからも生きて行きますよ」

 気づくと夫・父・母・弟とのさまざまな日常が、今のわたくしを支えている。


2018/8月 つづき 5月中欧の旅


 今月も5月の旅に纏わる幾つかの断片を。

 ドウブロブニクからスプリットへ。バスでの移動時に見た、複雑な曲線を持つアドリア海沿岸は息をのむ美しさだった。
山際のきらめく緑や岩肌は怖いほどに車窓に迫り、大小の島々が浮かぶ海は光あふれ紺青だ。

 或いは、スロベニアの首都リュブリャナからウイーンへ国際列車での最終移動時の、車窓を過ぎゆく沿線の町や村。牧草地ではタイムスリップしたかに古風な造りの家々と人々。放たれて草を食む家畜の小さな群れ。その、のどかな佇まいはしきりに西欧の昔話や童話をおもい起こさせる。

 あの窓外をみたのはリュブリャナ到着時、早めにウイーンへの1等列車チケットを購入していたが、国際線窓口担当者とこちらの語学力不足(要するにわたくし達の聞き取り能力不足ってことですね(笑))による行き違い事件のさなかであった。

 当日、勘違いしていた幻の予定列車に乗れず指示された列車に急遽乗り込んだのだ。かなり離れたホームへと、まったくの駆け込み乗車であった。この先思わぬ乗り換えを2度も強いられてもいる。果たして夕刻までにウイーンに着けるか???不安の最中であった。でも牧歌的に過ぎゆく窓からの眺めは、束の間それを忘れた。

 2度目の乗換駅グラーツからの車窓に展望されたアルプスの風景。遠近さまざま、その絶景にはため息まじりで本当に開放させられたものだ。その頃にはすでに無事、夕方にはウイーンに到着することが判明していた。1等車のゆったりしたシートで寛ぎ、ビールと遅い昼食を摂りつつの余裕も得ていたっけ!!

 思い起こすと、弟との初めての二人旅はけっして順調ではなかった。ヨーロッパ諸国とは何かと違いも多い訪問地でもあった。たとえば、ディ、ツアーでドウブロブニクから隣国モンテ・ネグロのモスタルへ行った折りなど、国境入出の都度バスを止められ、パスポート提出を求められたものである。

検閲には2~30分を要した。当初何事か?と緊張したが、それは入出国の検閲所で往復の都度、結局計4回繰り換えされたのだ。あ〜ぁ!!
帰国して知った事だが、これはクロアチァが国連に加入していないせいらしい。

 そんな折り、はじめて全くの個人旅行をしている弟の緊張や苛立ちはつのる。そのストレスは「長年の伴侶をついに失い、最も苦しい時期にある弟に、この旅を少しでも楽しみ、癒やされて欲しい」と望んで誘ったわたくしを不安にさせる。

「彼の不安が掻き立てられませんようように!そしてわたくし自身が、その材料を作り出さないように!!」暢気なわたくしが予想していなかったストレスをわたくしも抱えてしまう旅でもあった。

 そして、何しろわたくしは観光初日に大きな失敗をしていた。(先月記しました)それは取り返しのつかない不安材料として弟に残ってしまっていた。さすがのわたくしにもそれはハッキリと見えていたのだ、、、、。

 でもリュブリャナを不手際に発ち、あのグラーツ行き列車に乗ったことで、有り難くもあり、迷惑でもある忘れ得ぬ体験をすることとなった。それをお話したい。

 乗り込み時、女車掌さんにチケットを見せてグラーツ経由であることは確認したが、その列車に1等車は無かった。2等に乗り込んだけれど、とても不安だった。ウイーン行きへの乗り換え地点、グラーツ駅。何時何分に着き、出発するのか?車中によく置いてあるタイムテーブルなども全く見あたらないし、女車掌さんは行ってしまった、、、、。

 ほぼ同時に乗ってきたスポーティな服装で、たぶんスポーツ用自転車?を抱えた30代半ばの男性が声を掛けてくれた。(自分もグラーツで降りるから教えてあげる)と。自転車を置くコーナーを備えた列車だったのだ。

 そわそわと掲示板に気をつけていたが、次駅はグラーツと表示される頃ちゃんと声を掛けて下さった。そしてなんと、わたくしのスーツケースを持ってくださるのであった。

 ウイーン行き乗り換えに持ち時間は少ないであろう。不安を抱えたままのわたくし達。ところが彼はそのまま自身の自転車を右肩に支え、左手にわたくしのスーツケースを引き、ホームを歩きだす!驚嘆した1!

 階段を降り構内通路を通り、途中同僚らしき男性と挨拶を交わして行き交った彼。なんとウイーンへのホームへと階段を上りだした。それまでにわたくし達は勿論(サンキュー、後は自分で行きます)と申し出ていたのだが、首をふり彼は笑顔で行動を続ける。

 申し訳ないが、ありがた迷惑とはこの事だった。少し回り道をすれば、あれだけの主要地(オーストリア、第2都市)である。必ずエレベーター等有るはずなのだ。わたくしのより一回り大きなスーツケースを抱えて階段を登らねばならぬ、弟の身がとても心配だった。

 中肉中背・日に灼けた直截な面立ち・肩に自転車・片手にスーツケースを引き、颯爽と階段を上りゆく姿はこの先も忘れ得ぬであろう。

 たくましい体とやさしい心の持ち主は、息ひとつ乱すこと無く、わたくし達の感謝に笑顔でこたえ、肩に自転車を軽々と乗せ再び階段を降りていった。

 日本人は欧米人に比べると随分若く見られるようだ。たぶん、弟は老人に見られなかったのでしょう。断っても、もう階段を上りだした彼。エスカレーター等をさがす間もなく、勢いで共に上った弟。

 無事安心感をもてるウイーン行き1等車に乗り込み、おかげで時間の余裕も生じた。駅の売店で飲み物等を求め、(エレベーターはやはりあった)心の余裕を取り戻したものである。

 いま一つ忘れ得ぬ親切がある。クロアチァの首都ザグレブでの日本大使館の若い外交官S氏だ。インフォメーションやバス会社等の、あまりにも分かりにくい対応に疲れはてた我々は、幾度も通り掛った日本大使館に思い切って助けを求めたのだった。

 じつはわたくし達は、希望するプリトゥヴィツェ湖群国立公園へのディツアーを扱う旅行社を見つけ得ないでいた。(私事で恐縮ですが教えていただけたら・・・)と申し出た。対応された初老の館員から(朝はやい時間帯に近くの市中心地で、呼びかけのおばさん達が立って扱っているようです)けれど旅行社の紹介等は残念ですが出来ない立場にある。と説明を頂いた。

 当然だとおもいお礼を言って帰り掛けたおり、呼び止めて声を掛けて下さったのが若いS氏であった。今一度事情を聞いて下さった。

 わたくし達は問われるまま、率直に成り行きをお話した。ザグレブのホテルがなぜかどこも満室で、やっと3泊取れたホテルが中心地をはずれていること。ぜひ行きたいプリトゥヴィツェ国立公園への日帰りツアーを探したが扱っている会社等が見つからない。われわれの体力では明日、自力で周遊するのは無理なので・・・・・・と。

 氏は、この年で個人旅行をしているわたくし達を好意ある言葉で褒めて下さったが、心配もして下さったよのだ。雑談をまじえた後、知人に電話を掛けて下さった。返事は若し空いていたら、4万円でホテルまで送迎つき、車での周遊ができるとのこと。喜んでお願いしたものだ。

 残念ながら翌日が取れず、それは適わなかった。けれどあの若い外交官の、私的に渉るやさしい思いやりは心に響いた。プリトゥヴィツェ湖への未練に諦めもついたものだった。そう言えば、まだ使いはじめのスマホの調子まで見て下さったっけ!架かりにくかった息子への電話も調整して下り、すぐ通じるのを、わたくしに確認させて下さった事をも思い出す。

 翌日は市電と徒歩で古都ザグレブをめぐる。世界一短いケーブルカーに乗り、中世の趣がのこる愛らしい教会をたどり、もの好きだからなんと、世界に一つの(失恋博物館)にも入館したものだった。集まった恋いの思い出は、切なく愛おしく、さらには恐怖にもおそわれました。S氏の言われたように見どころ多く、とても趣きふかい街だった。

 この先もまだ旅行きたいと思う。死への旅も長くつづけているのが現実だけれど、その旅は、また別の刻・別の旅行き・天のみぞ知る旅だ。わたくしの意思で、たぶん妄想も伴う尽きぬ憧れのまま、気ままに流離いたい。酷暑のせいかしら?わたくしは今、冬の旅にしきりに誘われている。

追記
さっき、医者仲間の機関誌に寄せた弟の紀行文を読んだ。彼の旅には常に、訪問地の世界史上の歴史、それによる今の社会情勢への考察等、根底に思考がある。培った観察力をもち、考察の旅をしていた様子がよく判った。直感、直情による気分先導の旅をしているわたくしとは対照的なのである。わが弟ながら尊敬の念をも抱いた。「少なくとも姉と二人の外国旅行はもうすまいと、心に決めた次第である」と文の最後にあった。同感。よく判る。わたくしにも、老いによる、より衰えた諸能力・より自分本位になっている感情の自覚がある。これからの旅はやはりひとり旅が良い。ひとりに限ると改めて思う。 


2018/7月 五月の旅を想う


 麗しの5月だった。弟と共にクロアチァほか4カ国をめぐったのは。あれから未だ2ヶ月しか経っていないのに、18日間にわたる日々が何処か幻のように遠い。

 旅によるわたくしの長期不連絡は、帰国後、思いがけぬ速度で姉の落ち込みを進ませていた。そう見受けられた。だからこの2ヶ月、わたくしは姉への償いを心がけ、東京〜阪神間を往復していたものだ。

 そんな気ぜわしい日々の中、折りにふれ旅先の風景・出会った人々が、ふと立ち上って来たものだった。

 例えば、ドゥブロヴニクのホテルのベランダから臨んだアドリア海沿岸の暮れゆく海と空と地。息を飲む渺々と美しい眺望であった。そして、やはり暮れゆくウイーンの市街中心地。或いは、購入しようとしていたワインよりすっと安い地元ワインを勧めてくれた小スーパーの女主人だったりもする。

 弟と共に負担する気楽さから、旅の最終地ウイーンでは贅沢をした。屈指の宿を取っていたが、幸運にもすばらしい部屋が用意されていた。首相メッテルニッヒからチャップリン・エリザベス・テイラー等、歴代著名人が止まった部屋でラスト4泊をしたのだった。

 ウイーンの夕べから夜へと深まる空は、25年前とほぼ変わら蒼さを漂わせていた。すこし怖いほどの深い蒼。ほぼ毎夜弟の寝入った後、ベランダの椅子に座してワインを飲んだものだ。街の好ましい風景と行き交う人々。その暮れゆく佇まいに目と耳をうばわれつつ、物思う時を過ごした。忘れ得ぬ、あの「刻」

 あるいは旅の初期、滞在ホテルのフロントから数十分間電話を掛けまくって貰っても取れなかった、クロアチァ首都ザグレブの宿。使い始めたばっかりの、わたくしのスマホはなぜか機能せず?あの時は本当に焦った。

 フロントの青年スタッフ少しもは面倒がらず、10数カ所ものホテルに掛け続けてくれたものだった。その彼にはチップも弾んだっけ。

 まるで全観光客が首都ザグレブに向かってでもいるかに、予約の取れなかったあの夕べ。外国での個人旅が初めての弟の心配を察し「地球の歩き方」を片手にわたくしは必死になったものだ。なんだか切羽詰まるような感じに襲われたモノだ。

 でもやっと取れた。中心地からは外れるが、映画狂のわたくしに適した三つ星ホテル「ムービー」3泊が取れたのであった。各部屋にスターの名が付いていて、わが部屋はハリソン・フォードだったっけ。あのホテルのレァ・ステーキは最高だった!

 先の短い?私たち姉弟は「量、質ともに恐らく二度とこんなステーキを口にすることは無いでしょう!」と話し合い、3夜の内2度も、ステーキを楽しんだのだ。

 話が戻るけれど、わたくしと弟の初組み合わせであったあの旅。実はスタート時点、いえその少し前にわたくしはやっと気付いていた。

 弟のこれまでの旅は、たとえば「飛鳥」での世界クルーズ旅行等、丁寧にお膳立てされ、至れり尽くせりのお世話係である添乗員つきであった。雑事はすべてお任せして、自身はひたすら楽しんで居られる旅であったのだ。

 それに引き替え、集団生活が苦手なわたくしの旅は、航空券と出着地のホテル数泊の予約を取るのみで発つていた。今回は弟と共なので、間に入る土日の2泊も確保して、念を入れたつもりだった。

 しかし18日にわたる日々、交通・飲食・観光・予約すみ外宿泊等をすべて自力で行わねばならないのだ。(今回の旅は、これまでの弟の旅とはあまりにもかけ離れているではないか!!)やっと気づいていた、この重大事実!!!

 わたくしの方は、30数年ほど前から知人の絵描きさん主導で、小人数での自由旅を知っていた。それが好ましかった。とても!わたくしの気質に合っていた。

 35年ほど前、フランクフルトの甥の家から、若い日に夢見たトーマス・マンの生地、リューベック他2泊の旅をした。それが、わたくしの初めての海外ひとり旅だった。

 いらい、十数回に渡るであろう。独り、或いは二人での気ままなさすらいは・・・・

 今回、呑気なわたくしにも旅を直前にした頃にやっと、弟の不安が見えてきていた。そしてそれは、わたくしに新たな不安と気苦労を抱え込ませてもいた。

 子供時代のわたくし、宿題以外全く勉強はしなかった。本や遊びの世界にいつも心は上の空。落とし物、忘れ物もしょっちゅう。出来の悪い、役に立たない困り者であったのは確かなのだ。

 深く愛していた妻をうしなった孤独の中で、姉の誘いに乗った弟。彼はわたくしほどノー天気ではないが、天性大らかな人だと思っている。しかし、いざ、こんな姉と旅立つ現実を迎えた弟の中の不安と構えは否応なしにわたくしにも伝わった。

 機中早くも、今回の自力派旅に対する彼の予想を超える構えを察知させられる会話があった。そしてそれを知った事により、わたくしの中の不安や心痛は深まったものである

 わたくしは心中多分にパニックを起こしていた。そんなストレスはどうしても過剰に反応してしまうわたくしである。なんと、ドゥブロヴニク観光初日に大失敗をしでかす始末。

 ホテルを出る際、弟を待っていたロビーのソファにトートバッグを置き忘れ、ジャケットのみを抱えて発っていたらしい。しかし、バスをおりた時点で気づき、バス中に置き忘れたものと勘違いしてしまったのだ。

 期待していた、中世のたたずまいが残る旧市街観光。それは、インフォメーション・バス会社・警察等、要所、要所に立ち寄る仕事から始まった。それにはやはり、貴重な時間を相当費やしてしまったものだ。旅の初日はこのような不始末で不本意に始まり、その間弟はわたくしを全く責める事が無かった。

 それも、かえって辛かった、、、、、。

 貴重品はすべて、身につけたポシェットに入れていたから切迫した問題は無かった。でも大切なモノはいろいろ在中。初日から弟を落ち込ませ、今後への不安を増加させたのは間違いない。

 気を取り直しての昼食。ケーブルカーや徒歩での街歩きに疲れて帰ったホテルのフロント。そのカウンターの隅に、我が愛用のフェンディのトートバッグを見いだした時の驚きと喜び!!!

 弟はわたくしを責めなかった。それだけに、わたくしには応えた。以後、こんなわたくしに頼らぬ姿勢が強く見受けられるようになったのは当然である。

 公私に於ける、これまでの彼の人生。さまざまな面で仕切り、決定、先導してきたであろう。彼の男性としての主導権意識が立ち上がるのがはっきりして来た。それに対し、初日から大失敗をしでかしたわたくしは、自分の意見を述べるにどうしても遠慮がちになったものだ。

 その後、萎縮していたわたくしとしては、恭順の体を示し、彼に主導権を委ねるようにした。だから正直なところ、さまざまな面でわたくしの旅は窮屈で不便になってしまった。

 たとえば、方向や位置に関してわたくしは、「動物的な勘の良さを持っている」と自認している。幾度「こっちでしょう、その道は違うでしょう」の言葉をのみこみ、方向感覚の弱い彼の後ろをついて迂回する道を歩いたことか、、、、、。

 弟にとって、不慣れな個人旅行の始まりのあの頃。全く頼りにならない姉を見いだし、日々ストレスを抱えていた彼の目には、わたくしの思い込みはげしく、ノー天気な面しか写っていなかったのではないかしら?

 失意の彼に、リラックスして少しでも旅を楽しんで欲しいから誘ったのに、、、、。

 落ち込んだわたくしは、おとなしく我慢していた。時々間違っていると思う道も、遠回りをして、おとなしく付き従ったものである。ストレスを抱えながら、、、、、。

 しかし懲りないわたくし、後半やはり口を出しはじめた。10日ほどすぎた頃には弟も、わたくしの方向感覚の良さのみは、信じてくれるようになっていたようだ。

 最終目的地ウイーン。ダフ屋から手に入れたオペラ座の初日チケット。良い席ではなかったけれど「サムソンとデリラ」を観ることができた。

 エリーナ・ガランチャの、あの繊細で美しい詠唱は今も心をにこだましている。

 そして顧みるに、たぶん生まれてはじめてであろう。何一つ落とし物・忘れ物をしなかった旅であった。

 かけがえのない時期に、弟と、かけがえのない良い旅をしてきた。


2018/6月 疾風怒濤のち光希む


 疾風怒濤の日々を経て、がむしゃらに過ごしたこの1ヶ月半でした。5月8日からのクロアチァ・モンテネグロ・スロベニアを巡り、ラストは2度目のウイーンでの4日間に至る18日にわたる弟との個人旅行は何とか無事に終えていた。多分生まれてはじめてだと思う、失せ物の一つもなく無事に25日に帰国していた。

 それからである、より困難が待ち受けていたのは・・・・・。

 4月に記したように、もう海外への長旅は無理な姉への配慮で内緒で出かけていたのだが、その間に姉の日常は大きく低下していた。明らかにわたくしの長期不連絡も影響したように思える。不調の訴え、発熱等が続き心身の衰えが激しいらしい。

 入居先のスタッフが、日々の生活および医療面を、じつに細やかに見守っていて下さっていた。なんとか支えて頂いたからこそ、弟と長旅をし得たのだけれど、その厳しい結果も待っていたのである。

 帰国の3日後、姉の許え飛ぶ。滞在1週間(それが施設の連泊限度)で施設内医院の助力を得て、原因不明の発熱等の検査入院(一応、2週間予定)を受ける事が決まった。帰宅日、無事入院を終え,昼食を完食し、持ち込んだおやつも口にする姿を見届けて帰宅したものだった。

 ところが4日を経た夕べ、担当医師からお電話をうけた。胃カメラ・乳癌検査をのぞき検査は終え,とくに問題は発見されなかった。そして脳のMRI結果アルツハイマー型認知症であることを告げられたのである。

 予想通りであった。昨春頃から思っていた。その事は、、、、、。
昨晩秋、5年にわたる闘病の末妻を失った精神科医である弟には、年末頃から姉の現状を知らせていた。弟は正月以来姉を訪れたり、招いたりしていたが、その弟も精神科医に掛かるべきだ、と強く要望していたのだ、、、、、。

 元々私たち姉弟はこの年齢での体の検査など求めていなかった。尊厳死協会に所属している姉とて、本質は同様であったはず。でも脳の弱りのせいで、本人が強く体調不調の原因追及を求めた末の検査入院であった。従って入院時、こちらから心療内科の受診検査も強く願い出ていた。

 夜中に個室から出ようとする姉に手が掛かっているとの事。ただちに退院申し出をうけいれた。

 翌朝の手続き、退院等すべて、また姉の入居施設サンシティパレスのスタッフに助けていただき、姉はもどり、わたくしは夕刻に駆けつける。

 早速、ソーシャル主任Nさんと面談、姉弟旅行中の姉の経過、これからの相談、打ち合わせをさせて頂いた。適切な観察、援助にあらためて感謝する。「此処にに入って本当に良かった」

 プロの仕事は頼りになる。今回つくづくそれを思う。退院後7日を姉と過ごしたけれど日々、いぃえ一日の始まりから終わるまで姉の気分・感情・理性は目まぐるしく豹変する。始まりから終わりの時間も基軸は失われている。

 それを良い方に誘おうとするには途方もないほどにエネルギーを費やすのであった。過剰な感情移入に気をつけねば。

 「元賢姉が愚妹にすっかり心を頼らせてしまっている」今の現状。

 幸か不幸かわたくしの長い不連絡について当初は(弟と小学校同窓会の海外旅行にいっていたのでしょう。隆男は元気だったのか?)と感の鋭い問いを発せられて困っていたけれど、いつの間にかあの旅は無かったことで済まされつつある。これのみは有り難いことである。

 退院後7日間、介護申請その他事務的な諸事をふくめ、日々慌ただしく、けれど姉のこころに寄り添い、手助けすることのみを心がけてともに過ごした。正直、ともに老人であるわたくしには応える。だから笑い話にする。

 「お姉さん。考えてみると四捨五入すると90才、悪いところが有るのは当たり前ですよ。何しろ、おたがいに大中古品なのだから。入居者の皆さんも、自分の体を欺し、だまし、なだめながら過ごしているんですよ」

 姉も同感し,あの時、あの折の母を追慕しつつ語り合う。「今になってお母さんの体のしんどさも分かりますよねー。はじめてお母さんとヨーロッパに行ったとき、お母さん84才だったんですよ」飛行機から降りた地アムステルダムで、3~4日ホテルで寝込んだとは言え、思えば母は元気な体の持ち主だったのである。

 生物である人間が老いると衰えるのは当たり前のことと話す。そして、お互いに見かけも中身も大中古品の体であることを、共に大いにわらう。歩き食べ得る良き体を両親から受けたことも感謝し合う。

 その時、姉の理性は充分納得していると見受けるのである。たとえ、すぐ忘れられるとしても嬉しい。また面白いこと話せば良いのだ。

 始まった心療内科の受診同行もすませ、わたくしは1昨夜帰宅した。そして昨日はバレェを観に行った。予定を強行したのであった。さらに疲れきっていったがカフェで休憩後、2度目の映画「君の名前で僕を呼んで」をみた。これ程に美しい映画はめったに観られないと確信していたから。

 もちろん例の独りよがりなのだけれど、今のわたくしには自分自身が一番の頼りだ。自分を見失わぬよう今までのようにエゴを大事にしよう。楽しむことが出来る歓びを捨てまいとおもう。強くそう思う。

 毎日、11時に姉に電話をする事を約束した。それを喜んで受け入れてくれた。今日も声を聞いた。励ました。それで行こう。それで良いのだ。

 長丁場にわたる事態に、わたくしの心もやや定まったつもり。(姉の認知症を受け入れよう。プロの方々の支援を受け、出来るだけ普通に過ごそう)それへの心構えだ。

 家族のうろたえは悪影響を与える!それも実感している。姉にも言っている。(なにしろ、家でいちばんドジで落とし物名人だったこのわたくしがお姉さんの世話を焼くんだから、もう、大変ですよ!自分がヘマばっかりしでかしそうでっ!!)姉は同感して笑っている。

 家族がいる幸せがいま、ここにある。なおも在り続けて居る。これからもそれを大切にしよう。


2018/5月 つづき  旅発たぬ、いざ


 8日からのクロアチァ行きを控え、慌ただしくこころ落ち着かぬ日々を過ごしている。事前準備に今までになく手間取ったり。抱えているさまざまな不安と年齢的衰えによるのものであろう。

 そうです。末弟との今回の二人旅を実行困難な思いにさせていた、体調の悪い姉への配慮の問題がを抱えているのた。先月同行した大病院での検査結果、姉の体にとくに問題点は発見されなかった。医師もわたくしも、たぶん心因性に違いないと思っている。

 先月記したように、最善策としてわたくしは検査結果報告も兼ね(施設ドクターの紹介による検査を受けていた)姉の入居施設のかかりつけドクターや、生活相談主任カウンセラーの方に率直に相談させて頂いたのである。

 ドクターK氏、主任カウンセラーNさんともに「行ってらっしゃい、行くべきですよ」とご同意を頂き、さらに励ましの言葉をもお受けしたのであった。どんなに励まされ嬉しかったことか!

 さらにお二人ともに、頼りとする弟妹の留守による不安感を増させぬため、姉に内密で発つことにするとの結論にいたった。「なにか、命にかかわる事でも起きない限り電話連絡はしません」とも、Nさんは言って下さり、どれほど有り難かったことでしょう!!

 弟妹二人の旅は、「バレたらその時点で対応しよう」との覚悟を持つことも決まったのである。

 でも覚悟ってなかなかに難しい。隠している後ろめたさ、姉への罪の意識、不憫さ・・・・もろもろをいつも抱えてしまう。起伏のはげしい姉の状況に夜昼あけぬ注意も必要。

 もろもろのオロオロで、わたくしは大失敗を滞在先で重ねてしまった。まず、姉の施設にある安楽椅子型マッサージ器で体をいたわった際、こどもの手が入るほどの隙間に、膝に置いためがねを落としてしまったようだ。それ以外考えられない。その先は内部の機械部分なので、スタッフの力をかりてもどうにも取り出せ得なかった。

 おかげで迎えに来てくれた弟も交えた、久しぶり2泊の姉弟旅の遠部風景はおぼろである。麗しの春であったのに、、、、。

 弟は、奇しくもわたくしたちが初めて踏んだ日本の地舞鶴で、いまは甥が継いでいる心療内科を開院している。思い深いその地を、車でずいぶん広く案内してもらったのだが・・・・。

 次いで失ったのは携帯。海辺のホテルのガウンに残したようだ。発見されたのは洗濯機にかかった後。

 シェフを選んだ仏料理が美味しく、海への眺望がすばらしい、良いオーベルジュだった。が、考えてみるとそこで下働きをする人々は障害をもつ方々であった。オーベルジュ設立時、弟は大分働いたと記憶している。彼は40代から精神障害者の作業所施設に関わり、経済・精神面ともに支援していたではないか?

 納得した。忘れ物の問い合わせをした際、マネジャーは無かったと応えたものだった。片付け担当者が発見していなかったのである。ホテルとしては失格でもある。けれど・・・・・

 納得するとともに、直ぐに諦めがついた。昨年来スマホへの買い換えを考えたりしていたが、やはり億劫だった。本音は仕方なくだけれど今回を好機と受け止めよう。旅発つまでに少しでも使えるようにしよう。それ以外の方法は無かった。

 帰宅後、姉に電話する勇気がなかなか持てないわたくしに代わり、ちかごろ弟は始終姉に電話してくれている。 さっきその姉からは何とも心細い電話が掛かってきた。長話をしているうちだんだんと姉は元気を取り戻すようだった。すこしホッとする。

 しかし、今はいつもの(何かあったらいつでも飛んで行きますよ)の言葉は出せない。

 別れていらい体調不良の日が多く、入居先サンシティのスタッフの方々のお世話を受けることが随分増えているらしい。わたくし達が姉に内緒で旅出る事を了解して下さったスタッフの奮闘が、手に取るように察せられるのである。

 仕事の上とは言え、重たいこと人に押しつけて、、、。
感謝とともに切なさが寄せてくる。数日後の旅立ちに、今更なためらいも生じたりして。

 問題にまみれ、それでも旅行くわたくし。すべて、自ら起こした事柄だし、スタッフのご助力にふかい、ふかい感謝の思いをこころにで捧げる。わたくしは幸せだ。

 行けるとき、行ける間、わがままに、旅行こう。いざ。



2018/4月 旅発ちなん いざ


  日々心決めかねていた。
数年来続けてきた姉との海外個人旅、昨年は国内の旅で済ませた。もう姉と海外の長旅は無理、そう判断せざるを得なかったから。

 今のわたくしに、姉との交流がどれほど大切なことか! 姉にとってもそうである事は確信して言える。だけど、だからこそなのであった。いつものように、往復の航空便と着出地のホテルのみを予約して、気ままなさすらいの旅に発とぅ!わたくしは!!

 折りにふれ記しても来た姉との交流。姉の衰えがも目立つようになってきている。生まれて以来、賢姉・愚妹の間柄であったのに、物忘れもひどく、今ではわたくしがすっかり頼られている。まだ、介護は受けずに済ませているけれど、、、、。

 思えば2011年までの11年間、今のようにほぼ毎月母の許に通っていたものだ。けれど、あの頃と大きな違いがある。母の衰え行くのを見つめるのもむろん悲しかったが、今とは決定的な違いがある事に気づく。それは、母は親であり、姉は2才しか違わぬ人だと言うこと。

 近頃の姉、心身の衰えに意気と余裕を失い、気ままな心移りが多い。生来自分本位で気ままなわたくしが、常に姉の意を迎えるべく、ひたすらな判断をと努めてしまうのであった。姉を元気づけ、すこしでも楽しい時を多く過ごさせたいから・・・・。

 母の折り同様、毎月の大阪ゆきに変わりは無いのに、心情的に別な哀しみと心細さが常に漂うのである。なまじ、長かった賢姉・愚妹の間柄がわたくしをより不安にせるのであろう。どうしても訪問の都度落ち込みを引きずってしまう。そして、それは日常に潜在してしまう。不安と哀しみ、そして自責が漠として常に心に蹲るむ日々。

 生来の自分を復権させよう!基本的にわたくしは生来のエゴイストなのだ。我が侭喜代ちゃん復権だ!自身が弱っていてどうして人の世話が焼けよう!!

 この5年来、病妻を抱える末弟には姉の問題を持ち込みたくなかった。だから出来るだけ姉の事はわたくしが引き受けてきて来た。でも昨秋とうとう義妹も逝ってしまった。最愛の連れを亡くした者の哀しみ、淋しさは充分に想われる。でも、だからこそ、年始頃からはボツボツと姉の状況を話して来ていた。弟は精神科医でもあるから今は、プロとしての助言を求める上でもとても頼りとしている。

 先月その弟に声をかけた。(一緒に2~3週間クロアチァ・スロベニアをゆっくりと旅しない?)以下、わたくしの持論とともに。

「亡き愛する人々は、残した人が少しでも元気に生きる姿をこそ、希んでいる。悲しみに囚われ、死んだように生きる姿を決して求めてはいない」と。

 とても自分に都合が良いが、自らを励ませ得る言葉でもある。夫亡きあと数年を経てたどり着いたわたくしの持論。それが、信仰を持ち得ぬ者の行き着いた(大切な真実)なのだ。わたくしは自身にそう繰り返し、夫の不在から立ち直ったものだった。

 弟はすぐ決断した(そうだね、行こう)

 今2年ぶりにパソコンで航空便等を日々チェックしている。今行かないと、この事前調査の作業も面倒で出来なくなるかもしれない。その怖れは強い。今なら間に合う。「継続こそ力なり」は全き事実。稀な真実だと、これは長年来確信している。

 残る心配はこの件を姉に伝えず発たねばならない、との大問題だ。もっとも愛し,頼りとする者から取り残される淋しさと、不在による不安。それを知るから伝えることは出来ない。とても・・・・。

 幸い姉の居るシニア施設はひとり、ひとりの状態を実に細やかに観察、把握していてくださる。対応、処置も敏速で信頼が持てる。わたくしがネットで下調べの上、数ヶ月をかけ姉とともに10数カ所を体験、見学した上で決めた施設である。

 子供もいないのに、入居費用の高額さに姉はためらっていた。購入をほぼ決めて2度目の体験宿泊の折り、転居者が出てたまたま、眺望がよく広い角部屋が空いたのであった。大きな窓からは登山が趣味だった姉の好きな山並みもみえる。あれは兜山。眼下の大公園には遊ぶ子供の姿とその声。めったにない条件だ。

 (お姉さんはわたくしなんかと違って、自分に厳しく、世の為・人の為にもずいぶん尽くしてきたじゃないですか!わたくしには真似の出来ない事ですよ。お金残すことなんかないんですからね、いまは自分の為に贅沢して下さいよ。遣ってくださいよ。お母さんだってキットそうおっしゃいますよ)と最後はわたくしが猛烈に勧めたものだった。これは出来損ない妹の、稀に見る大ヒットであった。きめ細やかな職員の対応とともに、姉からはほぼ逢う度(喜代ちゃんのお陰・・・・。)と感謝されている。

 あーッ 老人の話は、つい回顧談にさかのぼる。話も長く且つ逸れてしまったようです。戻りましょう。

(身元引受人)である家族が計画する長旅。それについて来週の訪問時、フロント、生活相談カウンセラー、クリニックのドクター等諸部門の方々にもっとも適切な方法の指導を受けよう。ご相談することにしよう。そぅ、先ずはそれが一番。勝手ながらこころに頷く。

 なやみ多き老人の春の夜も、すっかり更け入った。でもそろそろ決め時が来ている。パソコンの航空便購入欄に「決定」のボタンを押そう。ビジネスクラスのキャンセル手数料は1件5万円也、も確認済。

 そう、明日決行だ。かなり度胸が要るけれど・・・・。


2018/3月 出会い直し


 日曜日の楽しみは、A新聞の数ページにわたる読書欄。ちかごろ読書量がとみに減退しているわたくしとしては、もっとも手近な頼りともなっている。

 筆者の顔触れが好みに合っているせいか、書評・推薦の文を読むのが楽しいし、今と言う時代も、ダイジェストに透けて見えて来るようだ。

 まだわたくしが席を置いている、今、現代の模様が紹介本を通して伝わってくるのである。

 2月末の日曜日、わたくしは努力して「保守と立憲」の著者である、政治学者中島 岳志氏を紹介する訪問記を読んでいた。正直、政治・経済等の問題はわたくしのもっとも苦手とする部門、こどもの時から勉強きらいなわたくしのアタマでは難解なのであった。

 でも勉強のつもりで読んでいるとやはり面白い。中島氏の高邁な理論に(理がある)ことは理解できるように感じる。

 思いがけぬ言葉にも出会った。「死者は居なくなったのでは無く、死者として存在している」と説く保守思想を知ったのだ。

 その存在する死者と生者には、必ず[出会い直す]時があり、その関係性が変わると説いていた。中島氏は、2ヶ月ほど前自死した西部 邁氏に、19才の時読んだ「リベラルマインド」で決定的な影響を受けたとのこと。その事態はわたくしにも想像出来る。

 強権的な安倍政権へ対抗して、現在の社会の構成要員として「死者の立憲主義」を軸に置くとのこと。不勉強なわたくしだ。「死者の立憲主義」なる理論はもちろん、すべて初見・初聞の概念であった。

 先月、極寒の多摩川に入水した西部氏とも、「出会い直し」が訪れるであろう。と中島 岳志紹介文は結ばれていた。

 西部 邁氏はわたくしも気にしていた。テレビでの発言に、とてもこころ惹かれた時もあった。けれど正直なところ、保守派の論客として知られる氏に、わたくし自身もレッテルを貼り付け、拒否していたのだ。

 たぶん10年ほど前、テレビでの西部氏は自らへもふくめ、人間への諦観をともなう疑念・不信を口にしていた。その時、おそれながらわたくしは、氏に自身と同質の匂いを感じたものである。

 だが深く知ろうとはしていなかった。だから亡くなって以来、西部氏の事が心に引っ掛かっていたのだ。今からでも彼の思想と出会い、学んでみようと素直に思う。

 3月は今日3日から18日まで、矢継ぎ早な母・夫・父・弟の順で命日がつづく月。ともすればこころ沈み、後退しがちなこの時期に、良い言葉と出会った。

 逢いたいと、つい面影を求めてしまう亡き人々。子供時代からわたくしは(自分はどこか変わっている)程度の自覚はあったように思う。周辺と不協和音を奏でる胸おくの響きをも記憶している。だから少しの寂しさはあったが、独りで気ままに過ごす時間を好んでいたものだ。

 そのまま、あまり成長することも無く、自分の世界を保ち、並外れてわがままに生きてしまったと思っている。すべて、後にし思いいたる事柄なのだが、、、、。

 だから、もっとも近しかった亡き家族にはもっとも負担を掛け、借りっぱなしのまんま、、、、。夫に対しての負債はことに大きい。

 内なる対話をかさねて「死者との出会い直し」を試みよう。

 自己への疑念を基に、亡き愛しき人々と内なる対話を交わし自身を顧みよう。自らを高めるべく生きて行こう。遅いし、自己満足に過ぎないけれど、それしかない。それでも良い。

 さらに思う。[出会い直す]はすべてに言える言葉だ。老いとともに日々、周辺の人や事象との関係性に馴れきったか?のわたくし。馴れきろうとしているわたくしも居る。

 言葉によるこの注意信号、深く胸にとどめよう。


2018/2月 映画、スリー・ビルボートを観て


 映画スリー・ビルボートを観た。
ミズーリ州の片田舎、さびれた山道に立つ巨大な3つの広告板。うち捨てられていたそれがある日突然深紅に彩色され、警察署長を弾劾する激烈な黒文字が躍った。

「恐怖の中レイプされた」「未だ犯人捕まらず」「ウィロビー保安官は何をしてるんだ」

 近くに住む、娘をレイプ後殺された主婦ミルドレッド(フランシス・マクドーマンド)。彼女は7ヶ月を経ても犯人が捕まらないことに業を煮やし、車を売り、月額5千ドルを業者に支払っての行動に出たのである。

 ウィロビー署長(ウッデイ・ハレルソン)は癌により余命半年を宣告されて居り、町中の人がそれを知って居た。ミルドレッドの許に赴いた彼は、穏やかに広告の撤回を説得するが断固、彼女は応じない。

 署長をふかく敬愛する部下のロックウェル(ジェイソン・ディクソン)は人種差別もはげしく、ろくでもない警官だが広告主、広告店主任への怒りを暴発させる・・・・

 先ず、のっけからの気配が只ならなかった。この、スリー・ビルボート掲示によって田舎町は混乱し、事態は加速的に悪化、予期しえぬ波乱の展開を見せる。

 普通のひとびとの普通な生活。人の営みに避け得ぬ、家族や地域社会を元にするすべての人間関係。それは親密な関係性や、行きずりの間柄であったりする。その中からビルボート出現を機に、人に潜在する悪意や排他性がが容赦なくあぶり出されて来るのであった。

 その結果、ミズーリの片田舎、普通の人々が犯す行動の愚かにも悲しい暴挙のかずかず。

 そして恐らくは登場人物すべての人がもつ優しさ、貴さも人々の関係性の中で折りにふれ立ち上り、漂うのだ。しばしば、わたくしはそれも見た。それは、ほんの一瞬の表情の中に立ち現れたりして画面から片時も目が離せない。

 切羽詰まり、腹を据えた凛々しい女主人公、ミルドレッドの行動は決して褒めてはいけないけれど、なんともオトコマエで格好よかった!!!。切なく、泪してしびれる。

 20年ほど前にみた「ファーゴ」以来気にしてきたフランシス・マクドーマンド。今回、言いようのないほどの演技だ。彼女なくしては、この名脚本は成り立たなかったのでは?と、思われさせるほど!!!

 そして、見事なとしか言いようの無い署長の自死。それによる部下ロックウェルの変貌。ともに優れた演技だった。ことに(ジェイソン・ディクソン)が良い。ダメ警官の生い立ちをふくめ、複雑な変貌を演じて胸を迫らせられた。

 共に直情・過激な主婦ミルドレッドと、クビになっている元警官ロックウェルは曲折を経て、思わぬ仲間となる。ラストシーンにはほのかな救いも兆される。

 この作品はつい先日、たしかゴールデングローブ賞を受けている。アカデミー賞の期待もじゅうぶうん。とされているらしいけれど、賞には元々わたくしは大して関心を持っていない。

 ミズーリの片田舎での出来事。いいえ、決してそうでは無いように思われる。これは今、現在の人間社会、世界のふつうの人々の生活そのものであり、その縮図だと考えられるのだ。

  おかしみと哀しみ。末怖ろしさに満ち、ダークな笑いをも伴う切なく愛しい傑作。監督・脚本ともに英国のマーティン・マクドナーであった。彼の作品は初見。まだ開始されたばっかり、上映中ぜひもう一度観たいと思っている。

 追記
 あと「デトロイト」も凄かったです。1967年、米国歴史上最大の暴動を女性監督がまるでドキュメントのように捕らえています。


2018/1月 火を灯し続けたい


 年老いて以来(もう15年ほど前からかしら?)ハタと気づかされる場がよくある。(そう、あの時の出来事はこんな事柄だったのだ!)(あの時、父・母・或いはあの人の気持ち、体具合はこのような事態にあったのでしょう)等、等、等、、、、、。

 すべて、後にし思う・後にて知る事柄だ。

 すべてが遅きに過ぎる気づきだけれど、仕方のなかった事で、わたくし自身の成長が遅きに過ぎたのである。さらに最大の原因は、人間は本質的にそう言う自己本位な逞しい生きものなのだから・・・と思い、勝手に自らを納得させてもいる。

 身勝手なわたくしは、これも15年ほど前から年賀状をお出ししていない。それでも頂く数十枚の年賀状。ことしも姉の許から帰宅した7日夜、しみじみと嬉しく1通ずつ拝見したものだ。これも懲りなく図太いわたくし。

 あかるい眺望は、全世界的になかなか望み得ない年明けだとは思う。でもわたくしには良き友・良き家族が居る。何ものともしれぬ大気に向い感謝をこめ、今日も晴れた空を見上げつづけた。

 世界の人々の中に、友の中に、わたくしの中に、希望・期待と言う{輝き}が灯るかぎり、2018年はより良く拓かれると信じたい。信じよう。

 毎月のわたくしの雑文、読んで下さる方々への感謝をこめて今年も続ける気持ちでおります。

 みなさま、よき年が拓かれますように!