2017年2016年/2015年
2014年
2013年2012年2011年2010年2009年2008年
2007年2006年/2005年/2004年2003年2002年2001年

2015/12月 オリジナルって?


 とまどいと魅力を、終始おなじ程度に覚えた。実在の人、マーク・ランディスに対して。
米国で、30年にわたり美術館へ贋作を寄贈しつづけた人物を追うドキュメンタリー映画、「美術館を手玉にとった男」を観たのだ。

 異様なほどに大きく立つ耳を持つ小柄な人であった。突き出た額と大きく窪んだ目にはどこか小動物のような用心深い鋭さが潜むが、怯えや悪意は見うけない。

 約5年ほど前、オクラハマ美術館の職員、マシュー・レイニンガーが贋作を発見した。調べ始めるとその被害?は甚だ広範囲であった。しかし彼の告発後もその行為は止まらない。なんと全米20州以上の美術館に及んでいるのだ。

 FBIも捜査したが、贋作者はすべて資産家や神父の善意による寄贈のかたちを取り、お金を受けていないので犯罪成立には至らなかったとのこと。美術館職員マシュー・レイニンガーは彼を追求し、その行為を止めようとする事に執念を燃やす。それにより職を解かれ、一時は無職にもなったりする。

 レイニンガーの行動は、友人シンシナティ大学のギャラリー担当者や、美術に造詣ふかい映画監督等を動かす。遂に警戒していた贋作者ご本人をも動かして、実像を追うドキュメンタリー映画が成立したのであった。ほんと(嘘のような本当のお話)まさに(小説よりも奇異なお話)

 中世の宗教画からマグリット、ピカソ、シニャック等々、スヌウピー、リンカーンの書簡にいたるまで、その範囲は広い。

 惜しげもなく披露されるマーク・ランディスの凄技。初老にかかると思われる彼が、子供時代から好きで続けてきた贋作。その着想と技術力には目を奪われる。天才だとも思う。10代から統合失調症の治療も受けているとの事だが・・・・。

 遂には、追う者とそれを記禄する者によって、彼の仕事を止めさせるために「贋作個展」が美術館で開催される。ここで初めて顔を合わせる贋作者ランディスと追跡者レイニンガー。その出会い、わたくしの目には、反目しつつも惹かれ合う同人種の解合に見えたものだ。あじわい深い場面。極めて。

 大もての会場で彼は言う。自分は図画工作家であって芸術家ではない。そして芸術家へのあこがれ、尊敬をも見せる。あれは、あるいはポースかしら??

 アートって何か?オリジナルって?更には人生の意義とは?決して不快な思いからではなく、そんな事柄へまで自然に考えさせられた。ついこの間の、これは不快なオリンピック・ロゴ事件もよぎる。

 [人は、生きていく上であらゆる事象をなぞっている]あらためてそう思う。意識・無意識を超え、たとえ無人島で一人っきりで過ごしていてもヒトのDNAはなぞるであろう。文化・思想・宗教もその上に立ち、変化し続けてきたのではないかしら?素朴な思考。

 ふり返ると、子供時代から(わたくし)にこだわって生きて来たと思えるわたくし。ふと、肩の力が抜ける。粋がっていたみたい。

「オリジナルなんて存在しない」そう言っていた贋作者マーク・ランデスの言葉がよみがえる。
生き方、存在そのものがアートのような彼に幻惑させられたようだ。

 芸術のオリジナリティについては、別格の問題として取り置くことにしよう。とりあえず振り返られるのは、膨大な模倣の歴史とともに来たわが人生であった、、、、。

 我がものとして過ごすわたくしの日々よ。それは掌の中に見出す小さなオリジナリティ!。
それで良いと思う。その、ささやかさを愛しもう。さぁ次ぎは何を観ようかしら?

「後記」 観たのはもう10日ほども前なのに気懸かりな残像が。1つは彼が神父に扮して美術館に出向くとき、道行く男性に求められて祝福を授けたシーン。そのあまりの自然さ!出掛ける前の身支度で、神父の白襟を差し込んだとたん、彼は完全に変身した。そのあまりにもな似合い方!!あっけに取られたものだ。彼の心は、アタマは、ホントに何もの?

 いま1つ  彼の父親は海軍将校であったとのこと(家族写真があった)。ダンスを愛し観劇、美術館めぐりなどが好きな両親。パリ赴任の時期もあり、一人っ子の彼の幼時は文化的にも恵まれていたのは確かなよう。彼が持つ母への愛のふかさは尋常ではない。〔ハッキリと異常なほどな愛と言えよう)父をも、おだやかに立派な人であったとして語っていた。しかし終盤ちかく、大酒のみでで暴れる人であった、と一言もらす。真相は??

★ ご参考まで 美術館を手玉にとった男」渋谷道玄坂のユーロスペースで上映中です。
絵を描いておられるサガンのみなさま。様々な意味でお勧めしたいと思います。


2015/11月 北の町 道をたどりて 紅あかり


 秋田も奥深く、乳頭温泉郷なる地に行った。10年ほど前までは趣味の登山をしていた姉の「かって、山くだりの折泊まりたかったけれど部屋が取れなかった。ぜひ行ってみたい」に付き合っての秘湯行きであった。近年の習慣で宿の手配、交通事情その他下調べなどはわたくしの役目で。

 新大阪から来た姉と無事東京発(秋田こまち号)で合同した。と言っても席は程よい距離で離れている。3時間ほどして田沢湖駅に着いたがバスが発つまでのゆとりがある。少し離れたベンチで早速くつろぐ。先ずはタバコです。

 じつは東京駅での姉の乗り換え時間は10分間ほど。フトそれが心配になったわたくしは、山陽新幹線出口で姉を待っていた。が、ぎりぎりまで待ってもその姿を認めぬまま発車寸前の(秋田こまち)に乗り込んだのであった。無事車中に姉を発見した折のよろこび。なぜかすれ違っていたその間の不安は大きかった。姉も現れないわたくしを大心配していた。

 スタート時からの心労も収まり、余裕の悪癖をふかしているとバス停にいた姉が来て催促する。「もう出るわよ」えっ、もう出るの!? アタフタと喫煙も中止する。
バスは間もなく出た。田沢湖畔を辿り、山道へと登り下り再び田沢湖畔へ。秘境までは50分ほどかかる予定。

 景勝地に来た。土地に纏わるガイドもしていた運転手さんは車を止め、「4時15分までにお戻り下さい」と言う。田沢湖は数十年ぶり。でも、日本一の水深による碧の深い大きな湖のほぼ全景を見晴るかし、眺望するのは初めてだった。

 紺碧の巨きな湖を縁取る紅葉。山里に点在する集落。北国の空はやわらかに蒼く、西空はすでに茜さしている。そちらに向け、白い雲の群れがはっきりと縹渺して行く。「統べて世はこともなし」と思わせられる、このひととき。

 稜線のうつくしい駒ヶ岳あたりの上空、一条の巨きな雲が、天空からの矢のように輝く線を示してそそぐのが見取れる。うっとりと眺め入り遅れぬようバスに戻る。

 バスは更に湖畔をたどる。そして運転手さんは「最期の休憩です」と又タイムを告げた。じつは大分前から不安だったのだ。山奥の秘境を訪れると言うのに湖畔めぐりをしている。もしや!?
運転手さんに尋ねてみるとやはりそのバスは(湖畔一周 観光バス)であった。

 発つおり、不思議だったのだ。(田舎のバスって定時前でもみんなが乗り込んだら発車するのだ、呑気だなぁ-)って。「そんなことはしませんよ」当たり前の答えが返り、はずかしい。

 でも親切に我々の乗るべきバスの時間と場所を教えられた。幸い便は良い。なんとか1時間半ほどの遅れで宿に入れそうだ。「バスが発つ」との姉の言葉に、予定より10分ちかい出立におどろきつつも確認しなかったわたくしも悪いけれど、姉に文句を言った。

 「お姉さんてっきり行く先確認していると思ったのに・・・」「でも田沢湖一周が出来たじゃない」うそぶく姉に怒ったり笑ったり。基本、わたくしの喫煙を嫌う姉の潜在意識がさせた出来事ではないか?と何処かでわたくしは思っている。

 先発のバスに乗り込んじゃって!。急かされたわたくしもノコノコと発っちゃって!!
でも帰宅日に(湖畔一周バス)は予定に入れていたから、早々のドジも例によって(まー、いいか)に落ち着く。

 運転手さんが心配してくれたのもよく分かった。闇につつまれた山林にあるバス停に降り、周辺を見た時には恐ろしさに縮み上がってしまったものであった。でも帰途の便を待つ青年が一人佇んでいた。道を聞いたら何と中国人だった。姉は早速得意の中国語で会話をかわしている。

 幸い、電話を入れたら宿の小型車が迎えに来てくれた。その後2泊、秘湯を求める旅は何とか無事にこなしたと言えよう。「2人で一人前」の合い言葉を胸に。

 足場は悪いが、景勝の地に4つの露天風呂を持つ宿だった。湯良し、食良し、人柄良し、テレビなし、部屋にトイレなしの環境。翌日は循環バスによる7つの乳頭温泉めぐりも楽しむ等、ひたすら温泉浸かりで過ごした。

 秋田のこのあたり、広大な周辺ほぼ統べてブナの木が植樹されている。すべて国有林の由。落葉して屹立するグレイの木肌がじつにうつくしい。感嘆すると、宿の人も運転手さんも緑の季節のうつくしさを口々に讃える。(来年のその季節にぜひ又来たい)なんて言う姉。もう知らない。もう面倒みないから。

 3日目、予定のあるわたくしは帰らねばならなかった。湖畔に向け、なかば下った平沢温泉のホテルで姉と別れる。さらに2泊、姉は秋田の山里で温泉を楽しむのだ。わたくし同様一人旅に馴れた人だったが老いている。バスの件と言い、別れには心もとなさが残った。

 とは言え、独りになったわたくしはマイペースを満喫出来るのだ。宿の食堂で相客の男性に「角館に寄って来たら武家屋敷の紅葉が素晴らしかった」と勧められていた。秘境の宿は朝もはやい。いつになく、わたくしも早出している。「角館」以前からあこがれを誘う地であった。さぁ角館へ・・・・。

 黒い門塀を構えた黒い武家屋敷、そこに今たけなわの紅葉。北国のくれないは紅の深さが違う。複雑な層の彩り。種類、濃淡にどこか硬質な彩度がある。紅葉と黒、対比の彩り。それにより、さらに深まる美。北国らしい凛としたうつくしさ。2~3時間、そこかしこの佇まいを彷徨する。

 屋敷のある表通りは季節柄観光客がおおい。残り時間は人の少ない川辺やふつうの町並をぶらぶらしよう。そして悪いけど、うつくしい地でのタバコはやはり美味しい。

 これも同宿客に勧められたお店で比内鶏の親子どんぶりも戴いた。まだ時間はたっぷり。周辺を楽しみつつ駅方向に向かうと、大きな八百屋さんがあった。やさい、くだものが道ばたに溢れ、豊かな彩りを見せている。ふらふらと惹かれる。

 (軽装で来たから、秋田の実りを持ち帰ろう)女性店員さんに選んだ品を頼みつつ奥へ入ると箱入りの林檎が並んでいる。なんてうつくしい林檎。彼女が説明をしてくれた。その中でひときわ赤さの輝く大玉が(紅あかり)とのこと。

 わたくしの中であかりが灯った。つい先日、あるクラスでの催しに参加させて頂いていた。沢山の方々が、わたくしのために時を割き集ってくださっていた。終始、身に余るあたたかに包まれた集いであった。

 更に、元来ドジなわたくしが、大きな花束を抱え、酔いの廻った足取りでポロポロと落とし物をしつつ帰る姿が想像されたのであろう。タクシーまで用意され、送り込まれての帰宅だった。車中、幾度めかの涙もぬぐった。

 眠れぬまま贈られたサイン帖を読んだ。おひとり、一人のお顔も浮かび、幸せであった。アトリエ・サガンのすてきな人々。こんなに暖かい人々に恵まれた幸運(やはり悪運が真実でしょう)を思い、その夜の酔いはより深まった。あの夜、心に灯の種を得ていた。

 老い、おひとり様で北構えの時期を迎えているわたくし。(でも人はみな最終的にはおひとり様ですものね)との不逞な覚悟も多少は備えているつもり。

 北の旅で出会った(紅あかり)名前も良い。形に現しようもなく、心に仄かな灯りを得ている。この想いをあの方々に伝えたいと思った。迷わず言っていた。「これを送って下さい」と。




2015/10月 行く手なお「遊びをせんとや生まれけむ」
         
 先月末,アトリエ・サガンでの仕事を退きました。間際までスタッフ内で今後の方針は定まらなかった。で、正直こころ落ち着かぬ日々を過ごしたものだった。作年末にわたくしはこの夏をもって退職の意志を告げていたはず。だのに今頃になって、この混沌たる意思疎通よ!!!??

 つくづく思ったものだった。(何という身勝手で我が儘な人の集まりだったんでしょう!)と。そしてあらためて強く思い知ったのである(わたくしも全く彼ら同様身勝手な人間。だからこそ、長年巧く付き合って来れたのだ)と!、、、、。

 どうやらサガンのスタッフは自己中で変わり者の集まりらしい。でも長く続いてきた。そして、これからも続くと信じている。確信を持って。

 16年前の夏、旧知の間柄である4人の絵描きさん達と共に、絵画教室を立ち上げました。それは全く手探り状態の素人集団による、とても大変な道でした。しかし無事経営され、数年後にはそれぞれのクラスも自主運営されるように。すべて総意で決めて来ました。

 以来、講師はそれぞれの采配で自身のクラスを運営し、現在に至っている。結果、各クラスは先ず講師の個性、そして、その講師に長くついて来られる会員の方々の個性を歴然と反映しつつ保たれてきた。この多彩な反映による各クラスの異なる雰囲気は興味ふかい。

 各講師の指導法はそれぞれだが、開室いらい変わらないものがあると思う。それはサガン創立時、根底にあった理念「絵を描く趣味を自らの身につけて欲しい」。商業主義から離れたその姿勢は全講師共通している。そのために、彼らは決してお座なりでなく一人一人に向き合った指導をしている。

 「稀に見る良い絵画教室!」・・・自画自賛でしょうが、わたくしの秘かな誇りでもあるアトリエ・サガン。世の好不況の影響を受けつつも無事運営されてまいりました。

 もちろん、長く支えて下さる会員の方々が、講師の原動力になって来たと思います。淀まぬよう、新しい風を吹き込んで下さる新しい会員の方々のお陰でもあります。そしてこの夏、マネジャーとしてのわたくしが抜けることになりました。高齢による依願退職です。

 なにしろ年ですから、いきなりの認知症、怪我、お亡くなりになる等、予測不能です。ご迷惑掛けない内に退かせて頂きたいと考えたのでした。(ハイ、すでにお掛けした生来のドジによる様々なご迷惑、ご心配はこの際不問にさせて頂きます)

 振り返り、ざっと述べた16年のサガン、ヒストリーですが書きながらニヤニヤしてしまいました。身勝手な、されど愛すべき4人の講師の顔が浮かんだのです。その人々とのさまざまなエピソードもたくさん、たくさん。

 「そうです。彼らは間違いなく自己主張の強い、わがまま人種です。けれど、色彩ゆたかなパッレトと、その筆をぞんぶんに漱げる泉を心にたたえる、紛れもない絵描き人種です」他人の個性や主張に対しても理解を持とうとする心開けた人々でもあるのです。

 今回わたくしの退職による今後の方針立てについては、多少ごたつき事も生じた。それに伴う気苦労があったのも事実だけれど、改めて、サガン創立時とまったく変わらぬ彼ら4人の個性を再見させられる機会も多かった。全くもって、てんでばらばらな顔ぶれがサガン構成の妙を成している。(失笑)ニヤリ。

 それは気がつくと見事なバランス。各自の立ち位置を、生きてゆくに必要な(理性と感情の間)或いは(感情と勘定の間)であやふくも守り切っているではないか!!で、わたくしも、わたくしの内の諸々の狭間に折り合いがつき、ちょっとした怒りも忘れて、お終いにはすっきりと声にして笑ってしまったのだ。

 思えばこの魅力ある人々と過ごしてきた、なんとも幸運で豊かな16年間でした。講師達もわたくしの事を「あの身勝手なかわり者」と思って居られるのはムロン確か。でもわたくしはこの「4人の優れた変わり者」との交流を、楽しく誇らしく、これからも心深くに止めて行くでしょう。

 老後街道まっしぐらは好みでない。できるだけ遊び、寄り道、をしてゆきたい。かねてからモットーは先人に倣い「遊びをせんとや生まれけむ」である。 親しくさせて頂いていたアトリエ会員の方々、これからも共に遊んで下さい。

 それからこのエッセー欄、続けさせていただく事になりました。ボケ街道まっしぐらも避けねばなりません。自分の頭の中の雑念染みたもの、を纏めるこの作業を続けさせて頂くことにします。みなさま、どうぞこれからも読んで下さいね。よろしくお願いします。


2015/9月 この夏2つの怪事件
         
 酷暑のつづいていたある夜、ベランダで植木の水やりをしていたら天からから霧雨のようなものが。(この暑さだから皆さん冷房をガンガン使って居られるでのでしょう。なにしろ築後48年にもなる古マンションのこと、たぶん古い型の空調機から水分が飛沫となって降ってくるのだ)そう思いつつ1フロア上の窓まどを見上げる。

 50鉢ほどもある大小の植木鉢、可愛がっているから水やりには時間と手間を惜しまない。毎夜拡散と注水を繰りかえし、たっぷりと鉢底までゆきわたるように水を与えている。そんな折り、天からそそぐ霧はむしろ心地よい。

 霧をあびる夜が2~3日続き、急に涼しくなったある夜、いつものようにホースをかざしていたらとつぜん上肩部からお尻にかけてざぶっと注水された。

 小さく声をあげ振り向いたけれど、誰もいない。わが家は6-7階部分にあるので寝室やその上の屋上を見上げるが何事もない。何者もいない。ゴムホースを手にキョトンと突っ立った。水はなおも上から猛烈にそそいで来る。

 呆然のひとときを経てやっと気がついた。調べると、そう、ゴムホースが破裂していたのであった。
慌てて水を止め、ホースにビニールテープをぐるぐる巻きつけてなんとか水やりを終える。運悪く急に涼しさを覚えた夜の事件、ほとんどびしょ濡れになりつつ恐怖と涼しさに震え上がった一幕でした。

 半月ほどを経たある朝、めずらしく早起きをした。早いと言っても9時は廻っているけれど、いつも自堕落な時間帯で生活しているから今日はすこし真面目な1日を送ろう。

 洗面・自己流リンパ、マッサージ・1杯で一日分が摂れるとの野菜ジュース・コーヒー&たっぷりとフルーツも入れ、ヨーグルトも食べる。さらに気休めかも知れないが続けている種々のサプリメント10粒ほどもキチンと摂る。すべてをだらだらせず順調に終える。今日の滑りだしは何時になく好調。感心、感心。自分を賞める。

 実は5~6日間、姉のシニアマンション移転計画のため大阪に行っていた。半年かけて調べ、体験入居なども重ねて取り組んできた入居先を、その間に決定することが出来た。それも、姉の嗜好を最大限生かすことが叶ったように思えるし、この先信頼して託せる入居先が決まったのである。

 引き続きいまの住まいは、執着を絶ち(不動産屋に売り出しを依頼をしよう)と姉の意志も固まった。その手続きも共に済ませ得た。

 もともと2人で一人前程度のわたくし達だし、事は、たぶん{人生終いに当たっての一大選択事}だ。姉の心境,判断も揺れがはげしい。ほとんど一体化せねばならぬ諸々の手伝いに、疲れ切って帰って来ていた数日後のことであった。
  
 ごめんなさい、いやですね話が逸れました。老人はこれだからいけません。ツイ思い入れを語りたくなるのです。

 その、わたくしとしては一大仕事だった大阪での疲れも残る数日後だと言うのに、いつになくマメに動くとベッドで溜まっている新聞を読むことに。横たわると数日分の新聞に読み入る。(今)の現象に一喜一憂、活字で確認出来る新聞が好きだ。。

 (今)の時代ほとんど憂のみでしかないけれど熱心に読みふける。脚にマッサージ器つかいながら寸時、うとうともしたかしら・・・・・?

 溜まっていた新聞をほぼ読み終えてリビングに降りる(そうだお洗濯しなくっちゃ)
洗濯物を乾していると鐘がなった。(あ、お午の時報。時報、夕方だけだと思っていたら12時にも報じてたんだ)

 パンと卵、トマトぐらいの軽い昼食をとる。怠け者なので(お洗濯、今日はめずらしく人並みに近い時間に乾している)と少し嬉しい。ゆっくりコーヒーを飲みつつ、留守中元気で過ごしてくれた花々に見入ったりもする。

 よい時を過ごしていたがふと気づくと空が暗い。(まるで、一天にわかにかき曇り)の異常現象のようで怖い。この急な涼しさと言い、集中豪雨でもくるのかしら?

 異常気象があたりまえとなった昨今だ。(お洗濯もの取り込んだ方が良いのかしら?)ベランダに立ち、改めて空を見上げるが何だかおかしい。向かいの丘の上はまるで夕空。それも落ちてゆく夕陽の茜を反映した東の空にしか見えない。

 またもやわたくしはベランダで立ちすくんだ。もしや!?ハッとしてよくよく見渡せば丘へつづく家々の中に灯をともす家がちらほら。真下をみるとすでに外灯が! バスも光で街路を照らしつつ走り去る!!

 気がつきました。さっきの時報はやはり5時でした。リビングに掛けたイギリスの古時計、春以来止まっている。重いので修繕に出すのを怠っていた。今日はぜんぜん時計も見ていなかった。朝の9時半頃から、、、、、、。

 今日はめずらしく人並みに頑張ったので晩までゆっくり過ごそう。ご褒美に録画した英国ミステリーでも楽しもうと思っていたのに!
あーわたくしの半日。消えてしまった半日よ、戻れ!戻せ!



2015/8月 中等愚民の観た「マクベス」

  呆けるほどに暑い日、パルコ劇場で「マクベス」を観た。例によって一人で。

 マクベスと言っても現代スコットランド版。舞台は精神病院で、患者である役者佐々木蔵之介が一人でシェークスピアの「マクベス」すべての登場人物を演じる。わたくしの持つ予備知識はこの程度であった。

 出演者としては他に女医と男性看護師のみ。装置としては2個のベッド、浴槽、椅子、外部への小はしご、ドァ、そして監視カメラ(このカメラの写し出す画面による舞台効果が良い。計算を承知した上で感心した)

 一人っきりで演じるマクベス。2時からはじまり途中休憩もなく、終演時には4時10分を廻っていた。ハードな舞台を佐々木蔵之介、かなり好演したと思う。さいごにはわたくしも大きく拍手をする。

 遊び好きだから若い時から芝居も多く見てきた。国内外の名舞台にも出会っている。言わば、すれっからしの観客だ。だからどうしても役者への要求は厳しくなってしまう。

 で、はじめの1時間ほどは乗れなかった。マクベスのあらゆる登場人物を演じるには不満が大きかった。(やはり彼にそれだけの力量は無い)

  今回わたくしは、脚本家本人が来日して演出に当たったこの芝居の内容、演出に対する興味本位で臨んでいた。正直、役者にはそれほど期待を持っていなかったのだ。しかし蔵之介氏はその内だんだんと本物の狂人になってきた。役柄が立って来たのだ。

 そして彼が照明を極度に落としているとは言え、舞台上で裸になり入浴したのには驚いた。ながい経験上でも全裸になる男優を観たのは初めてでないかしら?。そしてその頃から彼の演技はどんどん良くなってきた。

 バスタオル一枚で、我が身を晒しての演技。極度な緊張の中で冴えてくる演技、それが見えてきた。徐々に惹きこまれる。

 [ひとりの患者が入院し、以来病室でひたすらにたった一人のマクベスを上演しつづける]

 その事の意味を考えさせられた。そしてわたくしは想像する。「マクベスの登場人物のすべてが彼の中に存在している」ことを。

  殺戮される王・王を殺し地位を奪うマクベス・そそのかす妻・彼の友人・家臣・果ては予言する魔女から民衆までおよそ~20人。すべての登場人物は総べて我らが心のうちにある人物なのだ。現代の精神病患者はそれを知る者の象徴なのであろう。そういう風に解釈した。

 「シェークスピア以後も人間の本質は変わっていない」ただ、経済優先もここまで来て、社会状況は、より激しい速度で常に緊迫の度合いを深めているのではないか?
人間世界はより複雑化し、目まぐるしく混乱の度を深めて行くのみだ。日常的にわたくしはそう感じ、そう思う。

 たとえば、およそ100年前おなじ紙上で発表された漱石の小説「こころ」「それから」が昨年来朝日の朝刊で掲載されてきている。それを読むと日々、先覚者であった夏目漱石なる知性の大きさを考えてしまわざるを得ない。

 ことに現在掲載中の「それから」の主人公台助。冷静、明確な理性による覚悟を持って「高等遊民」として生きようとする彼の、ごくごく個人的な魂の葛藤が息苦しくなるほど細緻に表現されている。

「あの時代すでに、これ程個人としての人間とその時代、を見据えていた漱石氏。どんなに苦しかったことか?」’中等愚民,であるわたくしも余計な気苦労に胸を迫らせられたりする。

 ロンドン・ニューヨークで演じられ、日本が3回目だそうだ。パルコで観たスコットランド・ナショナルシアター版の[ One-Man MACBESTH ]は。

 蔵之介氏これで一回り力量を持ったと思う。じつは彼「けっこう認めてはいるが、好きになれない役者」だった。けれど今回は認めざるを得ない。好みの役者に入れようかしら?

 ふと思う。台助もずいぶんと芝居や音楽会に出向いている。「人間が人間をなぞること。それへの尽きぬ好奇心」これも不変な在り方だ。


2015/7月 夏の夕べ、よき友を迎えて

 遠くからの恩人が旅の途中わが家に立ち寄って下さった。昨年4月姉妹でギリシャへの気まま旅をしたとき、アテネ神殿の麓で転んだ姉が脚にちょっとした打撲傷を負ってしまった。その折りの恩人と言うべき方だ。

 姉はもともと骨が弱いので不安を抱えたものだが、保険関係でお世話になったアテネ人ドクター(政府留学生として京大・九大で修学されている)と、その夫人から並ならぬご好意とお心くばりをお受けして救われたものだった。

 アテネの後はエーゲ海のホテル予約まで手配していただいた。更にサントリーニ島では、お二人まで旅行風にさそわれて出向いて来られ、初対面を果たすことも出来た。まさに(怪我の巧妙)となったそのいきさつ、昨年当欄でもお話したと思う。
 
 あの時直感で、この年で新たな友を得たように思っていたが、今会来日され東京にも立ち寄られると連絡を頂いていた。で、ちょうどギリシャ総選挙の5日を目前にした夕べ、夫人とお嬢さん(彼女は初対面)をわが家にお迎えすることが実現した。

 昨年アテネでの出会い後、夏に入りごドクターとそのご一家は、すでに混迷していた国内状況を見極め英国に転職,転住をされている。今回お国の大問題について F夫人の意見では、(EUを離れるわけにはいかないのだから多分賛成が勝るでしょう)との予想であった。
4~5日後その考えが覆されたのはご存じの通りだ。

 あれは、知識階級、およびある程度以上の有産階級と、より厳しい状況下の一般大衆との意見差だったのでは無いかしら?とわたくしには思われた。

 語弊をおそれずに言うと 昨年すでに「大学を出てもレストランのウエイター位の職しかなく有能な人々は皆外に出る。残っているのはバカばかり」との厳しい言葉も聞いていた。

 さらに20年住んでいたY子夫人によると、エゴと言う言葉の発祥地である彼の国の人々は、みんな本当にエゴイストだそう。そして非常にプライドも高いそうだ。その言葉に、2才から居住した混血の美しいお嬢さんH子さんも強くうなずかれる。

 丸2週間のみの滞在経験者としても、それは想像がつくように思う。なにしろ総べての面で、スケールが大きい。善くも悪しくも落差の大きい彼の国の人々の人間性は、日々感じさせられたものだった。

 この、世界経済の動きにも関わる大問題については、けっこう真面目に勉強してみても無知なわたくしには判らない。でも(これは人ごとではない。大借金国日本の先を見るように思える)と感じられるから、そう述べる。その言葉はY子さんから大きな同意をいただき、話は他に移行した。

 珍客とあって息子も加わっていたが、アテネでJTBの仕事、ドクターの有能な私設秘書、そして何より昔の日本人の豊かな心優しさを惜しみなく公私にわたり配ってらしたY子さんとの会話は止めどなく弾んだ。とにかく思考、感覚ともに鋭く国際的に開放されている。素敵なお人柄だ。

 仕事柄沢山の日本人と知り合い付き合いもあったけれど、日本に来て逢いたい人は少ないとの事だ。彼女もまた直感でわかくし達姉妹、そして電話で話し合っただけの息子にも親しみを持って下さっていたとのこと。さらに意気投合してたちまちに刻は過ぎた。

 風が心地よいので、ベランダでおもてなししていたから時計を見ることすら忘れていた。気がづいたらもう4~5時間も経ち電車が心配な時間になっている。デザートも間に合わず「今度は貴女がイギリスへ」とお誘いを受けつつの慌ただしい別れとなってしまった。

 旅、旅よ、旅へのつきぬ誘い。考えてみるとわたくしは6~7才頃からよくガレージに閉じこもり、置かれていた父の古いトランクを開け、さまざまな古いモノ類に見入っていたものだ。戦争がひどくなり、父の車が軍に徴集され運転手も住まなくなり物置化してから後のガレージは取りわけ魅力ある居場所となっていた。

 中でも愛好した絵はがき類、どっさりとあった世界中の絵はがき。父がほぼ世界一周をしたのは1920年~1922年にかけてらしい。手にした写真の中の欧米の風景と人々に魅せられて、わたくしの憧れと夢想は飽きることなくふくらんだ。

 また旅をしよう!サガンのささやかな仕事からも9月には解かれる予定だ。去年退職を決めた折り「さらなる開放感を得て、より予定不測の旅に発とう!」とも思ったものだった。思えばあの古い絵はがき、あれが原点らしい。

 これも幼い頃からつづいた読書癖。家の本箱を浚い読みし、叱られて押し入れに隠れてまで読んだ本。細い光を頼みにしての隠れ読み、たちまち近眼になったがあれも旅だったのだ。未知、あるいは既知の、世界・事象との出会い、その確認。現実と想像・空想への飛翔、また確認。

 すべての歓び・哀しみも確認、更に確認のれんぞく、そしてそ更なる続き。知識・感覚も新たな確認の繰りかえし。気づくとこれらは総べて人生そのものではないか。

 昔から人生は旅に例えられる。わたくしもかねて、人はたいてい孤独な旅人だと思ってきた。年老いた今、重ねて思う。視力は衰えたけれど、本質を視る力はやっと育ってきたように思える。命あることと、死することの確認についての旅を、今たどっているのだ、と。

 悪運にめぐまれたこれまでの旅、とても魅力ある素敵な人々と出会ってきた。これからもその悪運を頼りに名実ともに旅を続けよう。ノーテンキで行こう。「最期の底について、わたくしなりの覚悟を持った上での楽天主義。流れまかせ主義」コレで行こう。決めました。 


2015/6月 お尻に火がついちゃって

 先日のことお掃除をしていてトイレの段になり、フト丁寧に清掃したくなった。わが家のトイレは4年前のリホームの際新しくしている。ちょうど3,11大震災の直後とあって流通が止まり、希望した機種を入手するのに苦労させれたものだった。

 品薄の中デザインにこだわったせいもあり、やたら多機能でフルオートの高級品が鎮座する結果になってしまっている。だから過剰な機能は節電のため使用していない。

 よく見ると沢山な機能の中に「本体そうじ」なるものがある。はじめてそのスイッチを押すと、見事後部タンクごと便座は持ち上がった。たしかにくまなく清掃できる。気持ちよかった。

 元来密着しているから汚れてもいなかったが(今まで気づかずにお掃除怠けていたんだわ)と少し反省しつつ元にすべくスイッチを押す。ところが戻らない。何としても戻らないのであった。

 慌てふためき「取扱説明書」をさがす。読む。もしかしたら電池切れ?それも試す。けど、そうでは無いらしい。再度読み込んでトライすれど、やはりガタガタと揺れて後止まる。その繰り返しを2~3度して諦めた。(これではかえって壊しちゃう)やはり故障らしい。

 変な時間にお掃除なんてしていたからもう夕方。急いで蓋に貼っているお客様相談センターにtelをして状況を話す。担当者との質疑応答で経過を話し合ったが、先方もお手上げで別の故障対応の窓口を紹介された。

 そこの担当者と同じ会話をくりかえす。再び指定どうりに作動させて様子を報告するが、やはり原因不明であった。結果、出張を依頼することになる。折悪しく金曜日で6時も廻っていた「本来は月曜日になるのですが、少しでも早く伺うように私からも特別に言い伝えて置きましょう」「あ、助かります。ぜひ早く来て頂くようお願いします」

 修理担当者からの返事を待ちつつお尻に火がついた思いだった。(なんて、ヤワなッ!)とは思いつつもどうしようもなく心細く不安なのである。

 ほんと、身も蓋もない話ですが(小)は何とかなるけれど(大)はどうしよう?
窓口の方は、親切にその方法まで指示してくださっていた。けれども避けたい。こうなると毎朝の快便がこわい。恨めしい。

 まもなく電話があったが、やはり月曜午後との返事であった。ほんと、がっかりする。どうしよう、、、、。
そうだ息子は幸い機械につよい、夜寄って貰おうかしら?でも止める。とても忙しいのは分かっているのだ、こんな事は頼みたくない。

夫がいた頃から親切に接してくださり、その後も「何かあったら遠慮無く」と声を掛けてくださる同じマンションの工務店経営の方、そのお顔もいっしゅん浮かんだけれど直ちに否定する。出来ない、出来ない。

 なにしろ問題がトイレなのであった。なんとも人様にはお願いしにくい。

 ややあって再びtelを受け「何とか明日午後に行きます」とのこと。喜んでお礼を言うとともに、明日夕までの覚悟を決める。お隣のスーパー、少し先の公園とかも覚悟に加えさせて貰う。そして(今夜は飲食も控えめにしなくっちゃ)等、くだらないことまで思いはべるのであった。

 さて、無事にプロの技術者を迎えた翌日の診断結果は? まったく一瞬であった。
何と持ち上げた本体の右方、便座後部に小さな脱臭パックがはめ込み式で設置されていたらしい。何とそれが初作動の際ずれ下がっていたらしい。それをパチッと元に差し戻すだけ!

 後部をのぞき込んで見ていはいたが、怖くて障ることは出来なかった。[じゃまをしている小物体があり、それを差し込む]との単純な判断。そんなこと思いつきもしなかったのだ。まったく木偶の坊のこのアタマよ!!

 2つの窓口担当者も、そんな事想定外だったのであろう。特に注意も受けなかった。でも出張を依頼したし、早めに来て貰って心強かった。事実助かった。あっけに取られているわたくしに、少し済まなそうに彼は言った。「請求書はあとで会社からお送りします」

 あーぁバカは高くつく。請求書がこわい!!!

 ★クサイお話、後日談
 5~6日後息子がおとずれて来た。3日ほど一歩も外に出ていなかったので溜まった郵便物を抱えて来たが、その中にくだんの請求書が。夕食を採りつつ、どたばたの1件を語り「さて、恐怖の請求書」と愚痴りつつ開封した。予想を更に超えている。出張料+修理技術料でなんとその値、7千数百円!おぉ、まさに時は金なり!!
息子に「貴方に遠慮し、思いやったせいだから払ってちょうだいよ」と迫ったがムロン笑って躱された。あ___



2015/5月 シニアマンション放浪記

 わたくし同様に独り暮らしをしている姉が、この頃シニアマンションへの転住を考えている。(体力、気力、判断力の残っている間に選択して決めたほうが良いでしょう)と、弟ともども賛成をする。

 姉はちかごろ自身の食事等日常雑事及び、広い庭つき一軒家の手入れ、お掃除、それらが大分おっくうになってきたらしい。これが一番の要素だけれど、それのみではない。姉が住みはじめた40数年前、郊外に開かれたその住宅地に相前後して家を建てられたご近所の親しき隣人方。皆さん、とうぜん共に年老いられたのだ。

ある方は南の島に転居し、ある方はすでにすでに逝き、あるいは病重く介護の人や車がしじゅう出入りしていたり・・・・。共にながく見聞して来たわたくしも良く知る方々だ。その方々に今や、支え合う力を持つ元気な人はほんとうに少ない。つまりその時がきたようだ。

 で、わたくしがネットで神戸の介護つきシニアマンションを調べる事にした。そして、その中から選択した施設を巡ることに・・・・。さらに絞り込み2施設に1泊体験を申し込んだ。姉ひとりでは心許ないから、出来の悪いこのわたくしが付き人兼参謀役を買って出る。弟からも頼まれたし。

 2施設を各1泊体験するその合間に、わたくし達は神戸で電車、タクシーを利用してなんと他3件の施設をめぐったのであった。計5件のうち姉が気に入った六甲の山麓にある1件は急坂の上にあり、わたくしが好んだ海に望む1件は潮風がつよいらしい。 

 本人の嗜好、施設のサービス対応、実績、等をふくめて全ての条件を満たす施設などあり得ない。それを覚悟した上で取り組まねば、、、、。今回それが最大の学習だった。

 わが家以上の住み心地は当初から望まないにしても、何とか折り合いのつく「終の棲家」をみつけるにはまだまだ調査、研修(つまりお泊まり体験)が必要であると、姉も深く自覚させられたようだ。更なる情報収集がわたくしの仕事に予定された。

 「もしかしたら、いつ我が身に起きる事柄か?」とも考えて共に体験しているが、実はあまり参考にはならない。姉とわたくしとの間には経済力に格差があるのであった。

 さいわい、姉は上等な施設をえらぶことが出来る。その事実が今後の展望として妹としてもどんなに気の休まる事柄であったか!(施設のクラスは先ずお金次第)当然とも言えるこの現実。つくづくお金の価値を思い知らされた「御体験」の日々であった。あーぁ。

 海辺のリゾートホテルのような施設に泊まった日の夕食時。2Fの食堂(事実上レストランでもあった)から眺める瀬戸内海の眺望。それはまさに心奪われる美景だった。

 向かいの淡路島をつなぎ、右方に明石海峡大橋の吊り橋がじつにうつくしいラインを描き海を渡っている。おだやかな海峡をときに行き来する船。自然と文明が織りなす100万ドルの夜景と言えよう!夜に入るとネオン、ライトがさらに美しい!!。ワインもつい頼んでしまう。

 1階の部屋にもどる折り、長い廊下の途中にガラスの大扉があり、押すと自動で開いた。「出てみましょう」少し歩いたが左右ともにただの草地、わたくし達の泊まっている部屋のベランダ前へも通じる海辺の堤防に面した外郭であった。回り終え、もとのガラス扉にもどる。

 ところがドァが開かない。自動ボタンは押せど叩けど動かない。入居者の食事タイムも終えているからか、だーれも廊下を通らない。広い外回りを右往左往するが出口はすべて鉄柵で施錠もされている。外灯は灯っているが海辺の闇はふかい。
 
 (まさか朝まで閉め出されることは無いでしょう)とは思う。姉と「足下に気を付けましょう。こんな所で転んで怪我でもしたら、おばあさんが好奇心をおこしてそんなムチャなことをするから・・・と笑われるだけだから」と笑い合いつつも怖さがつのってくる。

 堤防の上にはジョッキングをしている人が時々通りかかる。思い切って声を掛けたが耳に入らぬようだ。さすがに恥ずかしくて大声は出せないし・・・・。

 施設の部屋の多くは暗い。何らかの設備室なのであろう。明かりの灯る居室はあってもベランダに人影はなく、外からの呼び声は届かぬらしい。なにしろ入居者はご老体ばかり、耳だって遠いでしょう、あぁ。

 恐怖の徘徊はとてもながく思えた。オロオロうろついていたら、灯を照らしつつガードマンが堤防を廻って来る姿を見かけた。恥ずかしさも忘れて救いを求める。けっこう広い外回りで、中から開けてもらい無事救出されるまでには事故発生後30分ほどを要したのでないかしら?

 翌日、感想・ご意見を求められた際この件を話した。「わたくし達も悪いと思いますけれど、外からは開かないことを扉になにか書き示して置いて頂きたかった」と申し入れたら、外のドァ横に呼び出しベルがあり(入居者は自宅キィを当てると開きます)との表示もあったとの事。

 薄暗がりで慌てふためき、ただにドァを押し叩くのみ。そんな確認なんて思いつきもしなかった。それに考えてみると、あんな高級施設のセキュリティとして、外部からの自動ドァなんてあり得ない事柄ではないか!!さらにお恥ずかしい思いに捕らわれる老姉妹であった。

 でもこの体験もしたたかな肥料としよう。此処しばらくは[2人で1人まえ]旅行時の合い言葉を胸に、頼りないが元優等生の姉を支え、元・現劣等生のわたくしが「終の棲家」定めの参謀役を続けようと思っている。
え?2人でも1人前に足りないですって?!


 
2015/4月 調べに流されて

 体調のせいもあってその日はとても疲れて帰宅した。で、(マズは煙草一服)の悪癖で一休み。ややあって作り置きや買い置き、暖めた解凍食品などを並べた遅い夕食のテーブルにつく。もちろんワインもいっしょ、まずその一口から・・・・。

 ア、それから今日はお昼に残したお握りも頂かねば!

 ながいお付き合いの会員Sさんがこの頃先生とわたくしに(ついでだから)とお弁当を持参して下さる。その手作りお弁当はバランス彩りも良く美味しい。それに美しい。

 お箸、ナプキンも添えられたお弁当。口にはこぶと、ころも体も満たされるよう。だから食べ残しのお握りひとつでも大切に持ち帰っている。

 ふと、涙が来てしまう。別にまだ酔っているわけではない・・・・。

 今日はちょっとハードな一日だった。疲れもしたが仕事を無事に終えた安堵感がおおきい。こんな夜の食卓の友としてはテレビも億劫な感じ。で音楽にする、そうアルベニスの「イベリア」を流そう。

 たしか10年ほど前、フラメンコに凝った時期があった。このみな演奏グループが来ると渋谷でのライブを聴いたり、来演したスペイン国立バレェ団のアイーダ・ゴメス監督、主演による「サロメ」の舞台も観に行った。あれは圧倒的だった。

 あのころ求めたCDのピアノ曲、{エボカシオン「記憶、心象、情感」}をかける。
たちまち、主題アンダルシアの濃厚な気配がただよう。情熱と憂愁の大地アンダルシアよ・・・・。ワインもまわりはじめ、昔訪れた彼の地にこころは飛ぶ。

 巨大なはだしのアフリカ系黒人男性が目にうかぶ。16~7年前、3人連れで2週間ほどスペイン、特にアンダルシア地方を巡った事がある。

 旅もおしまいの頃、セビリアからリスボンへと5~6時間かけての長距離バスで移動した。褐色のその人が2~3列前に腰掛けていたいた。サリー風布をまとい、頭にもちいさな民俗調の帽子。体も動きも、態度すべてがでっかく力強くかった。 

 まったく物怖じしない強固な眼差し、目玉もおおきい。が、なにより彼のたくましさを示していたのはその素足だった。見たこともないし、その後も見たことは無い。分厚く、ごっつい巨大なはだしの足!!

 (この人はアフリカからジブラルタル海峡のどこかを泳いで渡って来たのではないか?)本気でそんな想像をさせられた。わたくしの目は思わず彼の足に幾度も行ってしまう。

 バスは暮色の降りたリスボンの丘、小さな広場に着いた。われわれもこれからホテルを探すのだ、いそいで市中に向かわねば、、、。車掌さんが引き出してくれる荷を待つ。

 と、アフリカ人の大荷物がバスの底から引き出された。大げさではない、2,5m四方は確実と思う巨大な包みだ、厚みもある。彼はそれを受け取った。どこえ、どんな風に担いでゆくのかその様子や行方をわたくしはこの目で見届けたかった。

 包みは多分カーペットでしょう。それはどんな柄、何枚ぐらい???

 夕闇せまる見知らぬ街、さすがのわたくしだって、自分の好奇心で友人達に迷惑を掛けるわけにはゆかない、だからそれっきり・・・・。
だがあの素足のアフリカ人は、あの2週間の旅で真っ先に思い出す忘れ得ぬ人だ・・・・。

 わたくしの夕食は毎日やたら長いのである。つぎはやはりショパンにしよう。このところショパンをよく聴く。
 
 その調べのあまりの美しさが、若い日には抑制のない感傷にも感じられた。本来低俗なセンチメンタリストを自覚しているので、流されそうな自分にどこか抵抗もあったのである。けれど一昨年のポーランドへの旅を機に、聴き直して考えは変わった。以来ショパンはひたすら好もしい。

 年老いて聴く早世の人ショパンの繊細な調べが今、純粋に美そのものとしてふかく柔らかに届くのである。大きな回り道をしてたどりついた愉悦。涙を覚えるほどにこのひたすらな美に酔いしれる愉楽。さびしいけれどわたくしは開放されている。

 人はたいてい、わたくし同様さびしい旅人であろう。道にも迷い、あたりまえにさびしい。お握りを食べつつそう思う。

 だけど近々来演するイベリアの名花、マリア・パペス。その期待のチケット「私がカルメン」もすでに持っている。そして時は春。爛漫のさくらふぶきからあふれこ落ちる、ひたすらな美よ。そのいざないに流されよう。

 
2015/3月 私の耳は貝のから

 終日こころ暮れて過ごし、夕食後食器を洗っていた深夜、衝動的にわたくしは玄関そばの床に身を横たえた。木の床、ことに頭や顔のあたる大理石は予想よりはるかに、しんしんと冷たい。そのまま抑えがたくただ泣きむせんだ。

 5年前の今日、夕刻帰宅したらそその位置に夫が倒れていた。その時意識はあったが、それからたったの10日間で逝ってしまった。だから毎年この季節はつらい。そして今年、医師に告げられた終焉予定をとうに過ぎてなお、頑張っている弟への日々の思いが重なったいた。一日の終わりに、わたくしの堰がどこかで崩れたらしい。

 夫を偲び、おなじ動作をしたことはこれまでも幾度かはあった。でも名のみの春、同じ日の床のつめたさは耐えがたく、直ぐに全身が冷えこむ。せいぜい5~6分も続けられたか?流しへもどる。

 誰はばかることない独り住まいなので、グシャグシャに崩れていたわたくしの口から突然「私の耳は貝のから、海のひびきを懐かしむ」と、言葉があふれた。なぜ、どこからこの詩がいまわたくしの口から!と自らおどろく。

 でも呻くように「私の耳は・・・・」を繰り返した。それをつづけている間にわたくしは納得し、片づけ終える頃にはこころの取り乱しは随分と和らいでいた。

 コクトーの詩「耳」の冒頭のこの言葉。思い出す、子どもが幼稚園に通っていたあのころ、30代半ば近くにあって、本人としては孤立感のなかで結構真剣に悩んでいたものだ。

 わが子は愛おしかった。でも子育て上の悦び、悩みとは別個に、自身の人生、ことに夫との結婚生活にはやくも行き暮れ感、あせりをを持っていた。実力も伴わないのに社会からの脱落感がひどく、子供じみた自我のみに囚われていた。ホント愚かしい女そのものであったと思う。

 その頃出会ったのが、アン・モロウ・リンドバーグ著、吉田健一訳「海からの贈り物」だった。わたくしは女として、人間として、個人として、自身の人生をよりみつめ省察する知恵ある助言を得たのだった。わたくしにとっては、ある危機を乗り越えさせてくれ、少し大人になれた貴重な本だった。

 「海からの贈り物」は、あの頃のわたくしにとってバイブルであった。リンドバーグ夫人の浜辺での考察は、さまざまな貝を手にとりつつ書かれていたと記憶する。連想からあの頃、コクトーの「私の耳は・・・」もよく口ずさんでいたのである。

 アン・モロウ・リンドバーグは人類初の太平洋単独無着陸飛行を遂げたリンドバーグの妻である。結婚後も仕事を持ち、さらに子どもを誘拐殺害されると言う過酷な体験も持つ女性だ。

 アメリカ人女性による海辺での思考、哲学。明確で深く緻密、繊細な思考をやわらかく駈けめぐらせたその考察は、心にまっすぐ響いたものであった。若いわたくしは共感による精神を昂揚させ、深い影響をうけたと考えられる。今読んでも、たぶんわたくしの耳には母なる海のひびきが蘇るであろう。

 名訳でもあったにちがいない。あの、考察する言葉のうつくしかったこと。実に美しいと思った。たぶん愛読したわたくしの人柄も少しは上がったのではないかしら???

 あれらはわたくしの意識のなかで潜在していた。あの頃が甦っている。そう気付いた。こころ取り直しやわらぐ。

 周辺の知人・友人、大きくは国の内外、みんな苦しみを抱えている。その中で、わたくしの謂わば当たり前すぎるほどの苦しみなど、どの辺に位置するか?日々みずからに言い聞かせ、理性ではわきまえている筈だったのに、、、、、、。

「海からの贈り物を」読み直さねば! 真夜中の2時、本棚を探したけれど見つからない。でも真に大事な本は処分していない。あの本はぜったいにある、日を改めて探そう。

 悪妻であったくせして、変わらぬ身勝手さでいつまでも夫の不在をかなしむわたくしはが「おかげで、今日一日の焦燥が鎮まったよう」と、夫と過ごす生活に悩んだ遠い日の自身に語りかけてみる。おだやかにベッドで。

 
2015/2月 いいお話を聞きましたので


 あたかも時が中世に逆行したかのよう、身代金・人質交換・公開処刑・等々のおぞましい言葉がメディアを行き交った10日間だった。それでなくても暗い時代の中、不快、不安の思いに人々が震え上がらせられた日々。

 その末の、さらに陰鬱な形で幕を降ろした「後藤氏」の最後。昨日それを知った。言葉もなく、ただに手を合わせるのみであったが、重い心に新たな不安が被さってくる。憎しみの連鎖、報復、その手の勇み足なナショナリズムの胎動がこわい。

 責任的平和主義を唱える政府、政権にそれを利用させてはいけない。[それこそを、今後警戒しなければいけない]と戦争の記憶をもつ人間の一人としてわたくしは考えてしまう。やはり、一言、言葉にせずには居れない。

 わたくしは旧植民地、満州の生まれ育ち。だから戦時中の体験とて、日本本土に比べると随分緩やかであった、とは後に知った。さらに、侵略者の一員でもあったわけだ。

 そんなわたくしでも近年、こどもの頃に感じた戦時中の気配をたしかに感じる。現主導者および、それに乗るか乗せるかの軽率な群衆に、それが見取れてれてならないのだ。

 「後藤氏の死を無駄にしてはいけない。さらに利用させる事など、決してあってはならない」独り言だけど深くつぶやく。

 そんな中、先日アトリエ・サガンで聞いた楽しいお話がしきりに去来する。あんまりステキなお話だったのでここでご披露させていただきたい。ある会員の方との会話である。

 [お母様が残された中国、唐時代初期の陶製人形をさる国立博物館に寄贈なさることに決めた]よし。

 スマホで写真をみせたいただく。白布をほどかれて、あどけなさを残す少女が言いしれぬほど美しい微笑みをたたえている。蒼の効いた柄の衣を纏い、柔らかに笑む少女のなんという愛らしさ! 横たわると、又ことなる表情を見せている。そちらも又やわらかな笑みに、この上ない無垢の美しさが漂っている。

 聞けばその少女は1700年ほども昔の人形で、受け入れ側である国立博物館からの鑑定、認定もうけたそう。完全に無疵が保たれているとのこと。国宝級の逸品にちがいない。

 「売りに出すと多分すぐにお金のある他国人に渡るであろうし、少々の金額の品ではないからお身内で相談して国立博物館に寄贈することにした」さっぱりとおっしゃる。

 (いまの世だって、けっして捨てたものじゃーない!!!)心晴れやかに暖められました。

 それにAさんには以前からそのスケールの大きさに感嘆させられていた。失敗をともなうエピソードをうかがっていると、生来ドジ・マヌケ人間であるわたくしは、自身の失敗が大したことでないように思えて元気が出るのであった。

もっとも亡夫に言わせたら(とんでもない、すでに監督官無き元わが家、それ以上気をゆるめられたら心配で浮かばれない!)と苦情まちがいなしでしょうが・・・・・。

 ひとつだけ彼女のご主人との逸話をご披露させていただく。

 去る日海外旅行のため、お二人で出航前日の成田に赴かれた。当夜ご機嫌なご主人は、さんざん前夜祭の杯を上げられたとの事。ところが翌朝空港に行かれたら、なんと予定便は羽田発だった由。いそぎタクシーを飛ばしたが間に合わず、さらに羽田にご1泊と相成る。翌日振り替え便に搭乗させてもらい、無事出立されたとの事。

 そのお話つづきがあった。その後飛行先仏・独国境近くにおけるご主人の、のどけくも無茶な車運転によるご心労。ちょっと眉をひそめつつではあったけれど、笑い話として聞いたものであった。あの時も笑った。そんな大きなヘマをなさる夫。それをあんな風に話される妻。

 彼女は人として天性の器量を備えておられると感じる。おそらく40年以上続いていると察せられる、そんなヤンチャなご主人とのご生活。なんておおらかに巨きいのでしょう!!。わたくしは笑い、かつ安堵のぬくもりを感じてしまうのだ。

 考えてみると、ただ単にだらしないだけで器量小さいわたくしには、あまり「タメ」にはならないお話かも知れない。それに、むろん家庭経済のスケールも違うってことはわきまえているつもり。喜んでばかりは居れないのは確か。

 それでも、まだ見ぬご主人とともに、このご夫婦を遠く勝手に敬愛している。

 
2015/1月 「石ころ」からのメッセージ 


 新聞を読んでいたら、岡本太郎氏の壁画「明日の神話」が、他の有力条件を持つ広島市や万博公園の設置希望を差し置きなぜ渋谷駅構内が選ばれたか、についての説明があった。

 「一日30万人以上が行き交う場がこの壁画が[道ばたの石ころ]になれる場所だったから」岡本太郎記念館館長の言葉である。

「パブリックアートは見たいときにいつでもタダで見られるもの。いちべつするだけでも、無視してもいい」「道ばたの石ころと同じなんだ」岡本氏はよくそう言っていたとのこと。壁面を覆わないのも「芸術は剥き出しで対峙するもの」の考えに沿ったため、ともあった。

 冴えないお正月を迎えていたわたくしの心に新年の風が立っ。巨きな作家としての、潔い靭さを持つ氏の側面を知り、わたくしなりに今回さらに納得がふかまる。

 2009年の1月この欄で記したことだけれど、わたくしは「明日の神話」ではじめて岡本太郎氏の巨きさを感じ、はじめてその作品を心から敬愛した者なのだ。
広島の平和大橋、太陽の塔などは見知っていた。でも臆面のない言動が印象につよい氏を、これまで自身の卑小な思い込みのまま更に追求しようとは考えていなかったのであった。

 「明日の神話」も現実に、ほんとうに石ころのごとく顧みられること少ない、とあの場でよく感じて来た。気ぜわしく行き交う群衆にとっては多く、ただ通路の壁に過ぎないであろう。

 でもわたくしの様に、原爆炸裂による圧倒的な負のエネルギーと、その中から立ちぼる(恨)が転じたかの凄まじいエネルギーを見て(不条理による打ちのめされ感と共に、相反する再生への不屈の人間賛歌)を同時に受ける者もいるでしょうと思う。それぞれの受け取り方でしょうが熱心に鑑賞している人をみかけたのも確か。

 記事により「剥き出し」の壁画は年一度地元の NPOとボランティア約20人により、4日間にわたる丁寧な「すす払い」が行われていることも知った。見知らぬ多くの人々があの「石ころ」を守ってらしたのだ。

 設置以降、何とはなし年頭にはあの雑踏に立つようになっている。巨大な作品をあちこちと移動してしっかりと視るのが近年の慣習だった。視る事を意識して対面すると、年ごとに日本の現状がきびしくなっていることも自覚させられた。そして、老いてゆくわたくしの現状もとうぜんきびしさを増している事をも、、、、。

 とどのつまり器量のない人間の、その時々の私的状況による印象の異なりもあった。視るたびに恐ろしさに打ちひしがれもした。でもどの時も必ず、それを超える強靭なエネルギー照射をうけたものだった。年頭以外にも求めて幾度か逢いに行ったものだ。

 けれど今年はまだ視ていない。(今度渋谷に出たら忘れずに立ち寄ろう)ちょうどそう考えていた矢先の記事。巨大なメッセージを放つ大切な「石ころ」よ、何時もそこに居て欲しい。