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2016/12月 面構え

 
 先日、デトロイト美術館展を観た。多くの印象派作品をじっくり楽しみ第2会場に移ったら、思いがけずドイツ表現派の作品が展示してあった。これも嬉しい驚き、充実した日だった。
その後2~3日、わたくしの中で画家達の自画像がくりかえし浮び、それと共に「面構え」の言葉が心を行き来した。

 アルル時代の「ゴッホ」。鮮やかな黄色い帽子をかぶる彼の、怯えを潜ませつつも挑むかの瞳。伍感がつよく搔きたてられる。
「ゴーギャン」。これはより不逞に挑んで来る眼(まなこ)だ。しかし此処にも複雑なためらいが見取られるようだ。

 そして、ナチの弾圧を逃れアメリカに渡っていたドイツの画家「ディスク」。いま1人の名前は忘れたけれどその2作家の自画像。この2人からもともに、挑み来るかの気迫をわたくしは受けた。

 画家達はその、するどい観察で自己を凝視している。表現されたその面構えは人を打ち、たじろがせるものを今も強く湛えている。後世に残る(私はこうで在る)との明瞭な表現。

 はからずも出会った、この畏るべき面構えの面々。揃って不逞・不屈に伴う、繊細・複雑さを潜ませているとわたくしは思った。あまりいい人達では無さそうだけれど、この感動は大切にしよう。

 きのう、目覚めに夫とテーブルに向かっていた。理由はわからないけれど、彼は大口を開けて笑っていた。漫画のようにその口元のみが大きくわたくしの前に開かれている。それは差し歯をすっかり外した赤い唇だ。わたくしも笑っている。 親しい友Y子もくつろいで同席している。同席者はいつの間にか今一人の親友H子に変わっていた。そして短い夢から醒めた。そのとき心は安らいでいた。

 大体が、夫の大口開けて呵々大笑と言う顔はみた覚えがない。ニヤリとやりすごすタイプだった。晩年、差し歯を外したほうが楽だったのは確か。話しちゃうと彼は嫌うでしょうが、わたくしの前でのみ、外しただらしない口元を見せたのも確かだった。でも、人前でけっしてそんな不様を晒すことはしなかったのも確かだったのだ。息子の前といえど・・・・。

 このところ画家達の激しい生き方を後世に示す「面構え」にわたくしは拘っていた。その反動だったのでしょう、きっと。
 
 夢に居た夫の無防備さよ。それも、わたくしの最も大切な友のまえで晒していた、全き開放。

 すこし泣いた後、わけも無く嬉しい。何時ものようにわたくしの、自分につごうの良い解釈だと知りつつも、構える姿勢から開放されている夫からのエールに、心和らぐのであった。

 構えたり、外したり。人生の達人への道のりはまだまだらしい。


2016/11月 続き アイルランドで

 
 先月の(失敗談は来月書きます)の言葉ですが取り消しにさせていただきたい。やっぱり自慢したくなるのです。あの幸運な巡り合わせを!

 ダブリン到着後はじめての週末を迎えた夜、ホテルの部屋でわたくしは[地球の歩き方]を片手に、電話をかけ続けていた。予約して当初から宿泊していたホテルはシーズンとあって延泊出来なかった。近くに好みの宿を見つけ1泊していたが、此処も明日土曜日の空室は無いのであった。

 その日は初めて、グレンダロッホ他を巡る現地ディツアーを体験、朝から遠出していた。素晴らしい一日だったけれど、ダブリン市内に戻ってからの一仕事が残っていたのだ。ツアー・バスを降りると真っ直ぐ今夜のホテルに直行してチェックイン。部屋に姉を残し、今朝発ったホテルに引き返す。預けていたスーツケース2個を引き取ったその足で、姉の待つ新ホテルへ移動。

 未だ入国後5日目だった。いかに日の長い地とは言え、すでに街は夜の気配に入っていた。そんな気の張る仕事をこなすのは疲れるものだ。ホテルのレストランで美味しい夕食を採るとホット寛いだものだ。

 しかし明日からの宿が無い。何としてもそれだけは確保しておかねば!! 夜なので相手は自動音声での応答も多い。流ちょうなその言葉、わたくしには聞き取る能力がない。ときに聞き取ったつもりでも違う箇所につながり、さらにややこしくなったりして、等々、、、、。

 空き部屋は無く、選択したホテルの格がだんだん下がってくる。不安は増す。あせって来た。そんな中、6~7件目のホテルで女性が電話に対応してくた。少し中心部から外れているが悪く無さそう、中規模の3星ホテルのよう。1部屋空いているとの事、対応の感じも良かったので、迷う閑もなくカードナンバーを伝え予約を取った。本当にホットしたものだ。

 自慢はこれからです。翌日到着すると直ぐ「今晩ディナーショウがあるけれど・・」と勧誘された。聞くとホテルのレストランで伝統的なアイリッシュ、ミュージック&リバーダンスのライブがあるとのこと。望むところだ、すぐに申し込んだ。

 映画「ダブリンの街角で」等で知ってはいたが、彼の地のストリートミュージシャンの質はずいぶん高い。滞在していたホテルがクラフトン通りにあったので彼等の演奏には日々出会い、楽しんでいた。しかし姉は夜出歩き、じっくりと演奏やリバーダンスを楽しむ体力を持っていなかった。したがって執事兼召使いが主を置いて夜遊びする勇気も元気もなく、手をこまねいていたのだから・・・・。

 その夜のステージはとても良かった。セッションは4人編成(内ハーブ演奏の女性はリバーダンスも踊る)の小ステージだが、懐かしさを誘う小気味良いリズムとダンスを目の前で楽しむことが出来た。聞いていると(アイルランドの音楽がフォークやロック発生の原点である)との説が身体的に理解させられるように思う。影響を与え合っているのは確かだ。

 良い夜だった。後に知った事だけれど、やはり粒ぞろいの演奏者達だったとのこと。CDも1枚購入して今流している。

 さて自慢はこれからです。部屋にもどり気になって[地球の歩き方]を見た。あー、やっぱり。今見てきたステージが表紙絵になっていた。リーダーのギター奏者のすこし薄くなった頭、その足もとに置いた飲み物のカップ、何よりも明らかにバック、ステージにホテルの名前が読み取れるではないか!
NSDOWNE THEATREと!!

 週末ちかく明日からの居所を求め「空き室は有りません」と何度も断られ、怯えつつ必死となって辿りついたLansdowne・Hotel。19世紀の建物にお風呂は無かったけれど、中々良かった。電話で話したフロントの若い女性は次ぎの地、ゴールウエイのホテル予約にも積極的に協力してくれたものだった。

 結局3泊したがある午後、ダウンして休んでいる姉をおいてひとりで出掛けた。あの2時間ほどの心地よい散策。ホテル近くの運河をわたり、見知らぬ街道を、見知ったセント・スチーブンソン公園までぶらぶらと辿り、大きな公園を縦断して運河沿いに帰途についたっけ。

 あの日河辺で行き交った人々、釣りをしていた人は魚籠の中を見せてくれた。中には、なーんにも無かった。ジョッキングする人、自転車の人、犬を連れた中年の気むずかしげな男性、老人と孫、楽しげに会話しながら行った女学生達。

 小さな2階家の開け放たれたリビングの窓辺には、食卓に向かっていた老夫婦が見えた。そしてなぜか独りでぶらぶら散歩風な人は、老人やおじさん、みんな男性だったっけ。

 セント・スチーブンソン公園のベンチに、ブロンズ像のスーツ姿の紳士がすこし横向きに腰掛けていた。あれは誰だったかしら?名を確認したのに、もう忘れている。ジョイスで無かったのは確か。お隣りに腰掛けて吸ったタバコの美味しかったこと!何れの記憶にもゆたかな緑が背景にある。

 今も鮮やかなあの黄昏どきの光景。すこうし儚いがしずかな優しい刻が流れる。わたくしの心に。


2016/10月 ときに、人生は麗しい

 
 先ずのご報告です。わたくし達老姉妹、無事にアイルランドへの旅から帰国いたしました。

 帰国してちょうど1週間ほどを経て、やっと疲労から抜け出した感を得た。何はともあれ、渋谷で映画を!
例によって2本をハシゴする。1本は駄作だと思ったけれど、張り詰めたこころにやっと日常が戻ってきた感覚。以来「マイペース」を手元にたぐり寄せたようだ。やっぱり映画は観なくっちゃ!

 さて、以前からアイルランドと言う国は、観光に誘われる地と言うより、わたくしの中でどこか聖地のような憧れの対象になっていた。それは先ず、近代文学の開祖と言える J,ジョイスをはじめ、B,ショウ・S,ベケット・O,ワイルド等々列挙し得ぬ巨きな作家に対する、わたくしの長年に渉る畏怖の念がある。さらに映画、演劇でずいぶん多く馴れ親しんできた国であった。

 今回旅立つ前の下調べはほとんど、ホテル・交通・気象等に関するネット情報のみであった。それに「地球の歩き方」とS藤講師からいただいた「アイルランドへ行きたい」を持参した。不用意でしょうがわたくしが最も頼りにしたのは、自身の中で培われていた直感的な諸々のアイルランド考察や雑学。さらに、今までの外国ひとり旅経験。大胆にもそんな漠としたそれをのみ頼りとして発っていたのである。

 何しろ飛行機に乗り込むまで、果たして行けるかどうか?と心労が絶えぬほどに姉の心身は損なわれていた。転居後はじめての夏に、クーラー嫌いの姉は室温調整もままならず、ひどく弱音を吐いていた。だからわたくしにも改めて下調べをする意欲も持てなかったのだ。

 日数のみ余裕を持たせた3週間の旅。すべて、その日その日の姉の体調まかせと決め、往復航空券と着日から4日間・帰国前の2日間のホテルを確保したのみで発ってのだが、結果は次ぎの通りとなりました。首都ダブリン8泊・西海岸の大きな都市ゴールウェイ8泊・国立公園に面するコネマラ3泊・ダブリン空港近くで2泊。
 
 ダブリン及びゴールウェイでは現地主催のディ、ツアーに各2日、計4日参加。その他は、姉の体調の良い日の徒歩の散策をはじめ、市電・市バス・市内観光バス・市内観光ミニ電車等に乗って廻ったものだった。 旅の最終3日間はのんびりと海、と田園の自然美に包まれた辺鄙な地、コネマラのアイリッシュ・カントリーハウス・アンド・レストラン過ごした。

 このキャッセルホテルでは到着日に先ずタクシー観光を進められた。他に便はないのだから翌日から午後の3~4時間を2日続けて利用した。これがとても愉快だった。約束時、空気に花々の香りが馨しくそよぐホテル前庭のベンチで待っていたけれどいっこうに現れない。その内ホテルからフロントの女性が飛び出して来た。(ドライバーが20分待っている・・・)と車に案内される。

 なんとそれは個人の車で、わたくし達を待っていたのは70才くらいの女性ドライバーだった。その人は20分ほど前、近辺を散歩して帰って来た時にちょうど車を乗り入れて先を行く姉に声を掛けていた。「何て話していたの」と聞くと「観光に来たのか?」と聞かれ、そうだと答えたと言っていた。駐車場に車は多く客同士顔を合わせると挨拶は常だったから、そのドライバーも車で訪れている相客とばかり思っていたのだ。彼女も「貴女たちとは思わなかった」お互い笑う。
 
 その内判って来た。どうやらホテルは近在の人々とアルバイト契約をしているのだ。週末とあって当初お目当てのホテルは取れず、手持ちの「アイルランドへ行きたい」に特記されていたハウス、ホテルを選び、ゴールウェイのホテル、フロントを通じて予約を取っていた。その折の約束通り、バス到着時に迎えに来ていたドライバーは無骨な小父さんだった。

 辺鄙な田舎町なので、若し迎えがなかったら?と車を認めるまで不安だった。嬉しくってチップを弾んだらひどく遠慮がちに受け取り、礼を言っていたっけ。(あーあれ弾み過ぎだった)

 この女性ドライバーにはその後指名して2日間世話になった。口数少ないしっかりした人で、観光地のショップでは共に買い物をしていた。見せてもらった小さなTシャツから2児の祖母である事も知らされた。出立日の朝バス停まで送ってくれたのも彼女だった。こちらが見積もったバス出発に合わせた時間を(若し道が混んだら?)とホテル側に15分早めるように申し入れをする心配りも見せてくれた。

 じつは旅の会計役でもあるわたくしは、長時間の借り切りに相当な費用を予想していた。でもチェックアウト時の精算では驚くほどの安さであった。タクシー代総計たしか4万円に満たなかった筈だ。

 お決まりの観光については省かせていただく。毎日のような突然の雨、そして風。一日の内にも気象は激しく変った。その自然の厳しさは持っていた覚悟をしても、しばしば脅かせられたものだった。でもそれを超えてなお、海、山、川、湖、田園、それらスケールの大きく伸びやかな自然美の素晴らしさに魅了されてしまうのであった。

 さらに街も美しい。ダブリン、ゴールウェイ両市もそれぞれ異なる美しさを見せていた。たぶん制限があるのでしょう、高層ビルはまったく少ない。各家、建物の色調、すべての佇まいが実にうつくしく調和が取れている。なんと言うか等身大の美しさを見せているのだ。

 この国の人々はそうとう冷え込んできていると思われる日でも窓は多く開放されていた。ツイ、のぞきこむ様に見入ってしまう窓辺から推察する市民の日常。そこから、人々が日々を心豊かに堅実に過ごしている様子が充分に見て取れるように感じたものだ。

 食事も野菜、肉等が実にしっかりした味をもつていた。さらに何よりも感じたのは、お国柄としか思えぬ人々のシンプルな親切心である。これは予想外、予想をはるかに超えた事柄だった。
正直あの厳しい自然や歴史の中で、長く内外から揉まれてきた国の人々がこんなにも心優しいとは思っていなかったのである。

 昨年アイルランドに取材旅をされたS井講師は、電話での会話で「同感だ。長い間揉まれ苦しんで来た人々の持つ優しさだろう」と言われた。彼の地を長年のテーマとして居られるS藤講師も「そうでしょう。そうでしょう」と、弾んだ声で同意なさる。

 わたくしには今回 S藤氏の、彼の地に寄せる深い思念が大分理解されたように感じられる。気象、風景、あの変容の大きな自然が持つ(厳しい美)それに対峙し、接していると、畏怖の念が自ずと生じて来るのであった。
氏のモチーフであり続ける地は、広場のベンチでたばこを吸っていても過ぎてきた人生・これからの道等、応えのない永遠の問いをわたくしに掛けて来た。 
  
 術もなくただにそれと向き合い、こころの周辺をまさぐるのみであったが、今もその気配は深く浸透している。

 さて、彼の地でのある日、ツアーバスの出立地に向けて急いでいるわたくし達に行きずりの老婦人が「何処に行くのか」と尋ねてきた。前日わたくしはその場所を確認していたが、後からくる姉がモタモタしているので振り返りつつ不安げな顔をしているのを察して下さったらしい。答えると突然自ら先頭に立って走り出した。まだ時間に余裕はあったが先を行き、運転手さんにどうやら私達が来ると伝えて居るようだった。ご自身も決してお若くは無いのに・・・・・。

 その他、街角で戸惑ったり、尋ねたりする都度あたたかい対応をしてもらった。中には新鮮なマーケットを教えて下さる次いでに、今求めて来たオリーブの実を袋ごと下さろうとした方もいた。ご辞退したけど嬉しかったなァ。

 日本人かと声を掛けられた事も2~3度。姉妹で写真を撮られた事も1度。良い思い出ばっかり!

 姉は「今まで行ったどの国よりも好きになった」と言っている。やはりあの自然の美しさと人々のお人柄に魅せられたようだ。「出来ればもう1ど来たい」と暢気にのたまう。あの、温室のように層ガラス角部屋の姉のダイニングルームの夏はたしかに厳しい。「避暑に来たら」とわたくしも半ば本気でからかう。

 失敗談もむろん沢山〔次回お話しましょう)でも J・ジョイスゆかりの地は随分と巡った。小説「ユリシーズ」発端の地であるマーテロー塔にも上り、念願が事が叶った。(現在はJ・ジョイス記念館となり、当時の再現、保存がされていた)

 そしてこれも憧れの彼方であった壮麗なトリニテッド・カレッジ図書館。16世紀建立いらいの建物に入るとわたくしは思わずでは笑み崩れてしまった。美しい空間に収まれた美しい書物棚の集合!!その中にいると、そのあまりにも優美荘重な美しさに言いしれぬ幸福感が満ちてくる。あぁ。

 見ていると入館者で本好きな人は直ぐ判った。わたくし同様わき起こる歓びの笑みを顔に溢れさせているのであった。
 
 それから、ジョイスの通ったパブで2度食事もした。アール・デコの佇まいが残る店で他の人々を見つつの食事は美味しく楽しかった。等々等。

 えぇ、ときに、人生は素晴らしい!!!


2016/9月 出戻りの記

 
 何ともみっともなく、わたくしは出戻ってきたのです。関空ターミナルから、、、、、、。

 実はハタと気づいたその時点からそれは予想内の事柄でもあった。目的地アイルランドは「観光者はパスポートに、3ヶ月以上の有効期間を要する」とあったのだのである。すべての事前処理を終え、あとは発つのみと思っていた出発5日前にそれをに気づいたときの驚愕!(わたくしの有効期間は1ヶ月足りないではないか!!!)

 更新には最低1週間かかることも判明した。どうしたって間に合わない。直ちにパソコン、電話に向かっての苦闘がはじまった。錆びたわが機能、頭・手・耳・そして心をフル回転させての苦闘であった。電話で尋ねた相手はいずれも、確答はできないと口ごもる。

 遂にアイルランド大使館に、藁にもすがる思いで電話をした。老姉妹の2人旅は延期出来ないむねを伝えると、相手のの女性はこう言われた。「こちらには何の権限もありません、空港の審査員次第だと思います」さらに「止められたら、往復航空券、ホテルの予約表などを見せて頼んでごらんなさい。行くしかないですね」と。

 わたくしは悪運に賭けることにした。手数料は掛かるけれど、幸い航空券のキャンセルは効く事も判明。1番の問題は姉の体調と気分だ。心身ともにも決して良好ではない。ここまで来るのに随分気を揉ませられもした。今になってやり直しを伝えたら、ショックで再びの仕切り直しは無理なのではないか?そう思える。

 しかし、外国への気ままな個人旅行は最大の楽しみだと常々言っている。わたくしは我が守り神、悪運の神に賭けて行動したのであった。

 その第一歩、先ず関空でそれは覆された。フィンエアー、出航受付カウンターでパスポートは直ちに引っかったのである。ただ一言「たぶん私達にとって最後の旅になるでしょうから何とか通して下さい」と述べると、わたくしは本当にへたり込みそうになる。

 カウンターの最上司らしき外国人男性が直ちに来た。そして女性係官に厳しい小声で指示を下している。係官は「先ず現地で入れません」とさらに加えた。納得して直ぐ引き下がった。2人の表情で、わたくしの読みの甘さが思い知らされたのだ。唖然としてわたくしに問う姉に実情を告白、説明しつつ、それは、ものの2~3分の出来事であった。 

 とにかく腰掛けよう。腰掛けましょうと、ベンチに座す。

 堅物の元高校教師である姉には考えられない、わたくしの愚行であった。「例え1日でも、期日が不足していたら許されるような問題ではない。そんな事考える喜代ちゃんの心が判らない。頭がどうかしている。空港審査員に頼んで見るなんて、人情劇ではあるまいし」

 全く正論であった。中々しっかりしていて久しぶりに見る毅然とした姉らしい姉。わたくしは深くあたまを下げた。ちかごろ少し態度が大きくなり、仕切りがちになっていたわたくしであったが、出来の悪い妹に戻り切り全霊をこめて詫びの頭を下げ続けるのみ。それしか出来ない。

 救いがあった。言う事を言うと姉は直ぐ、大らかな決断を下した。「やっぱりアイルランドに行きましょう」と言ってくれたのだ。言葉もなくわたくしは感謝の頭を再び下げる。

 そうと決まれば大忙しであった。ネットでチケットを購入していたから、自動受付に向かって、飛行機・ホテルのキャンセル手続きのおびただしい数字を携帯で打ち込む。会話もして統べての手続きを終えた。姉のおかげでビジネスチケットを購入していたが、10万円を費やすことも判明した。他にホテルの当日分キャンセルが3万数千円、、、、。まったく、わが天然のドジ、およびお気楽さよ!バカはホントに高くつくのだ XXXX!!!!。

 その一仕事も成し終え、さて帰ることになった。今朝送られて出た、姉の住むシニア施設。3週間の留守を知らせ、植木鉢の水やり等も頼んでいるのであった。「あーぁ、どのツラ下げて帰れようか!」オドケて、そして本気でわたくしは言った。姉は顔をすこしゆがめると爆笑した。わたくしも声にして笑ってしまう。わらい続けた、共に。

 帰宅すると先ずは、パスポート更新に出向く。帰途ふらふらだったけれど、やっぱり日比谷で映画を1本みて帰るわたくしであった。(ヤング・アダルト・ニューヨーク 私見では★★★★上げたいほどの佳作)おかげで気分も大分整う。夜に入ると、気合いを込め計画すべての仕切り直しに向かった。シミュレーションは幸いにも?終えている。だから仕事は思ったより楽に進んだものだ。何事も前向きに捕らえよう(笑い)

 と言うわけで、再出発は明日の予定。29日からの3週間、今度こそアイルランドをうろうろとして来ます。従って今月は早めの発信となった次第です。
  
 どなたか心がけの良い方、愚かなわたくしのさい先を祈って下さったら有り難いのですが。

<附記>
 出立の前日、サガンの教室から「そろそろ出発だね」と電話をいただいた。わたくしの旅が話題に上り、居合わせた方々で声を掛けて下さったとの事。親しい方々の「行ってらっしゃい」の言葉が嬉しかった。こころ和らぎました。

 電話を切る寸前になってわたくしは、S講師に「聞いてくださる?じつは心配事があって」と口に出していた。しばしの躊躇い後すこし不安げに「いいよ、どうしたの?」と返され、誰にも言い得なかった事の次第を打ち明けてしまったのでした。例の胸を塞がせていた大きな不安を。

 それからはワイワイ、ガヤガヤ。「お婆さん2人だからテロは疑われないでしょう」ひとしきりの笑いをふくめ、随分こころが温もりました。ありがとうございました。S先生、Sさん、Oさん。聞いて頂き、気持ちがとても楽になったものでした。覚悟も大きく居直ったものです。

 更にその後、元ベテラン客室乗務員であり、その指導者でもあったSさんには本当にお世話になりました。プロであるだけに余計ご心配を掛けてしまい、ご自身が控える受験に時間の余裕もない中、さまざまに調べて頂いたのですね。出発直前に受けた携帯でのご助言、ご忠告も身に染みて嬉しく受け止めました。

 あえなく出戻りとなりましたが、皆さんの思いやりのお気持ち、どんなに嬉しかった事でしょう。あの時も、そして仕切り直しで出直す今現在も、大きな力を得ております。感謝を込めて。



2016/8月 誘われて、アイルランドへ

 
 [この夏は日本の猛暑をのがれて、避暑旅行をしよう!]春先からばくぜんと、いえ、かなりはっきりと希望していた。
ただし、姉を置いてのひとり旅は心懸かりだ。そして今の姉に、二人っきりの外国の長旅がこなせるかしら?悩んだ。ずいぶんと。

 去年は弟が逝き納骨後、姉のシニア施設入居検討がはじまった。下調べからお泊まりの体験〜入居先選択〜および決定〜そして1月末の入居。その後ようやく落ち着きを取り戻すかに見えるまで。夢中に、がむしゃらに来たこの1年半であった。

 おととしの夏、故郷大連や思い出にあるハルビンを10日ほど姉と巡って帰って来たら弟に異変が起きていた。癌も末期に在ることが知らされた。あれから翌3月、亡くなるまでの辛かった7ヶ月。

 弟の死は姉に、わたくし以上の打撃をあたえた。そう思える。
長男と長女、共通項が見える。わが家にあって、それははっきりと見えるのだ。二人が自ずから担う家族に対する責任感である。

 姉は少女時代からの、こころの戦友を失ったのだ。わが家の境遇が敗戦により激変したあの時期、病い勝ちの体から戦後急檄に逞しく生きた母。その片腕となった姉。その姉にとってこころの戦友であり続けていたのだ弟は・・・・・。

 姉とわたくしの喪失感はそれぞれ異なっていた。ちかごろ漸くそれに気づいている。そしてさらに思った。今、旅発たないと、もう姉はふたたび外国への気まま旅には行けないであろう。本人も(なによりの楽しみ)と言うその旅は、やはり体力・気力を求めても来る。

 3年前のポーランド行きから始まった、年2回外国へのふたり旅。今年決行しないと、わたくし自身も旅立てなくなる。さまざまな衰えを我が身にも見出しての自覚である。

 クラクフの旧市街通りで「貴女は日本人ですか?」飛びつくように聞いてきた金髪の少女。イエスと答えると「日本人を初めて見た。美しい」と18~9才のその少女は素晴らしい笑顔で語りかけてきた。沈み、痩せ、老い衰えていた、このわたくしに向かって・・・・。

 傍らに、母や姉らしき人がともに笑顔でわたくしを見つめていた。「ウクライナから来た」と語り、家族とはロシア語で話していた。わたくしはロシア語をほんの少し話せるけれど、お国の事情を思うと、あえてロシア語は使えなかった。翌年のあの国の大事変、彼女達の境遇はその後、どのような流れにあるのかしら?

 夫が逝った3年後から始めたあの旅から帰り、わたくしは自身が立ち直り始めたと、思う事ができた。悪妻であったのに、悪妻であったがゆえ、再び夫に逢えない哀しみに囚われていた。ながい、長い不在の感覚。どうしようもないその喪失感から少しずつの立ち直りを自覚した。

 姉は今よりはずっと頼もしかったが、久しぶり、しかも年老いての個人旅行であった。下調べから始まるそれは、やはり気力を要したものだ。しかし、憧れの各都市を足下にして、悦びはわたくしの心身に行きわたった。食も通りはじめた。

 そして、あの飛びつくように現れた可憐な少女の澄んだ瞳と、無心な賞め言葉もわたくしに、思わぬ力と歓びを与えてくれたように思う。確かに、夫の不在から立ち直るきっかけとなったのはポーランド行きであった。

 賽は投げられました。ダブリンへの往復航空券と、着後4日間、出立前2日間のホテルをネットで購入。月半ばから3週間「アイルランド避暑旅行」と銘打って出掛けてきます。

 勉強好きな姉と異なり、遊びで蓄えたわたくしの雑学が、わたくしの旅をいつも、より豊かに楽しませてくれる。今回は、わが文学の聖地とも思うジョイスの地、ダブリンから始まる旅。姉の体調次第、場合によってはほとんど滞在型になるかも知れない旅。その条件でおもむく、2年ぶりの長旅となる。 

 姉は転居に関してのお礼とて、費用全額を持つと申し出てくれた。ありがたくお受けする。おかげで贅沢な旅が出来そう!下調べにも余裕がもてる幸せに感謝する。老人の旅は、さまざまな安心・安全にお金を要するものだから・・・・。

 では、執事兼、秘書・マネジャー・小間使い・ストレンジャーとして行ってきます。老姉妹の健康を、どなたか祈って下さると嬉しい。

附記
 わたくしと下の弟は生来どこか大まかで、お気楽な気質が共通していた。けれども今現在、心身ともにきびしい条件が押し寄せ、先の見えぬ日々にあって、健気に奮闘しているのはこの2人だ。弱気になり(旅は行けないようだ)と今になって言い出したりする姉を、弟は電話等で懸命に支えている。妻の癌再発対策にこころ追われているに違いないのに、、、、。
 
 アー幼稚な自己中心時代のツケには期限がないようだ。弟とわたくし、わが家の歴史に残る苦しい時代他、姉へのもろもろの恩返しにバタバタしているみたい。(笑い)


 
2016/7月 縮みゆくお話

 
 もう10年以上も前、70才ぐらいの頃だった。15才ほど年下の親友と、映画館前で立ち話をしていて「アラッ」と思った。ずっと小柄な人と思っていた友。だが今路上での目線は彼女と同じ位置に在るようだ?? その日わたくしの履いていた靴のヒールは低め、彼女は高めではあったが・・・・。(ア、わたくし背が縮んだみたい)

 しばらくして姉の家で、母を見舞う姉弟が揃った席でその話を出した。すると弟が(じや、計ってみよう)と言い出して採寸されたが、なんと5cm近く縮んでいた。姉もほぼおなじ、弟は変わっていなかった。(その後知ったが、男性より女性にその兆候は多く見られるらしい)

 母は計らなかったけれど、見た目でも完全に10cmは低くなっていた。余談だが母の時代、背の高いのは恥ずかしいことだったようだ。だから(才色兼備の人として名高い歌人、九条武子夫人をはじめて見た少女の時、その丈高さが嬉しかった)と身長157cmの母から聞いたことがあったものだ。

 その母は5年ほど前、入居していた施設の自身の部屋で2人の娘、6年来おなじみとなっていた医師、看護士、介護士さんたちに見守られて消えるように逝った。望みうるもっとも良い状況で旅立たせていただいた、と今もふかく感謝している。あの郊外のこじんまりとしたホームの人々の、真執な暖かさは忘れ得ない。

 姉の家に亡骸を連れ帰り身内のみで集い母を送った。葬儀のその日、母の背筋や足腰はすっきりと伸び、明らかに背丈がもどっていた。数十年来日々縮こまっていた姿形が・・・・。

 はっきりと目に見える大きな変化だった。医者の弟もそれを口にした。あの不思議をいまも思い起こす。昔の美しかった母のおもかげも見られた。やわらかな表情だった。

 あれは重力からの解放だろうか?わたくしには、生きていること、106才を気丈に生きてきたことからの解放のように感じられた。

 話しを戻し、自らの背丈の縮みに驚いたあの頃、アトリエのシニア世代の会員が占める或るクラスでその話しをした。話しは「背が縮むのは如何なる要因か?」に移る。笑いつつみんなで数え立てる。

 先ず、脊椎感の軟骨が減り間隔が詰まる。腰骨も狭まる。くっついていた膝も気がつくと O足になっているではないか!。で、膝がまがる。背が曲がれば更に腰もまがる。マイナス要因が大体出そろった。納得だ。

 出尽くしたと思ったころ、最年長のO氏が[髪の毛が薄くなる]みんな、げらげらと大笑い!そこまでは気づかなかった!!

 元来豊かな黒髪にはほど遠く、細く軽かったわたくしの髪など、今はまったく蜘蛛の糸。梳き落ちたその髪を手にして、ふと思い出されたあの日の教室。黄昏に向けて歩む人生のきびしい発見に、居合わせたみんなして爆笑してしまったあの午後のひととき・・・・。

 わたくしは今もまた、フツと笑ってしまう。

 まったくっ!そんなに暢気に笑っていてはダメっ。髪と共に確実に細ぼる脳力も大問題。大恐慌。少しはマッサージでもして抵抗を試みなさいよっ!高橋さん!!

 
2016/6月 活字が好き、新聞が好きです。

 
 いつの頃か気がつくと、新聞は日常生活の字引的存在であり、わたくしに取って「社会の窓」になっていた。多分それを意識したのは老境に入ってからだった。その頃同時に「1誌しか取っていない誌面を鵜呑みにしてはいけない」の姿勢も自覚しだしたように思う。

 わたくしが採っているのは子供時代から馴染んでいた朝日新聞だ。過去、戦時中の韓国慰安婦問題についての報道で種々その姿勢が問題になり、大批判を受けた。おそらく存亡に関わる時期であり、現在も尾を引いて居ると思われる。記事の取り上げ方も変化している。

 (でも問題のない新聞社、あるいは問題にならない公正な報道なんてあり得るのかしら?)だから問題点に留意の上、今も取り続けている。わたくしには合っていると思うから。

 けれどわたくし自身も嗜好がかたより、つい文化欄にのみ関心が向かってしまうのだ。(これではイケナイ)と怠け心をを抑え、経済・政治欄も努めて読むようにしている。そこで学者、評論家等立派な方々が、じつに判りやすい解説で現状を説明、紹介をしている記事に出会う事が多々ある。

 「なんて頭の良い人なんでしょう」と今の世界、社会の動きがこのアタマにも一先ず理解出来たことに深く感謝する。難しい問題について柔らかに説く、識者の「言葉の力」に大きな感動と同時に活力をも受けるのであった。

 生きている以上、今の時代を自分なりになるべく識っていよう。との野次馬精神は相変わらずだが、時代のこの目まぐるしさに引き回されるのは嫌。だから脳だって当然古びているわたくしに取って、やはり情報の基本は活字であり、新聞なのである。

 毎月1週間姉の処に行く生活をつづけていたから帰宅後は溜まった新聞の斜め読みが大変!先ず漱石の「我が輩は猫である」が最大読み物だ。100年前、おそらく父も愛読していた朝日紙面で読んだであろう。

 若い日の父はどのように読んだのかしら?わたくしに取って、2年ほど前から続く100年ぶりの漱石連載は大きな楽しみだ。(こころ)から始まった小説はいずれも、とても深くかつ面白い読み物だと思っている。

 若い時代には読み取り得なかった夏目漱石なる人の凄さを知る悦び!老人だって新たな楽しみを深め得るのだ!

 それから、先月は身近く良いニュースを2件キャッチした。1件はサガンの会員であるモデルのOさんの書かれた小説「永遠とは違う一日」が山本周五郎賞候補で最後まで争ったとの記事。

 さらに阿川佐和子氏がOさんを今若手で最も評価している。と、これは雑誌広告面で知った。

 ひとり偏見を恥じた。どこかでずっと彼女の小説を(ゴーストがいるんでしょう)と考えていたのであった。テレビはほとんど録画でしか見ていないのに、彼女を根性はあるが単なるタレントさんとして観ていたのであった。

  Oさんは華やかな職業に似ず落ち着いた方だ。ひけらかさない性格なのでしょう、教室で才気も煌めかせず、 KYも果たし、オーラを抑え、普通を装って居られたのだ。[絵を真剣に描きに来てらしたのだ]それにやっと思い当たる。

 数年前、一流誌に短編を発表とこれも誌面で知った折、思わず( Oさんがご自分で書かれたのですか)と来合わせたマネジャーさんに聞いてしまった事があった。

 (勿論です)強く答えた彼の言葉をも、どこか信じていなかったわたくし。

 偏見や思い込みは自身を哀しく卑小にさせる。だから出来るだけ柔らかな思考に解放させて居よう。(ずーっとそう希い、心がけても来たつもりだったのに、、、、。)

 胸の内でOさんに、深い反省のお詫びと共に、こころからのお祝いと声援を送った。そして彼女が、手洗い場や廊下でふと掛けて下さった言葉をも暖かく思い出す。Oさん、あんまり頑張ってお体壊さないでね。今度こそ貴女の本買いますよ」

 別の一件は、国立西洋美術館が「世界遺産」についに登録された、と報じる大きな記事。その中に、地元上野御徒町で長年その運動を続けてきた推進会長 I氏のことが、写真・談話入りで取り上げられていた。

 アッ、I さんのお父様だ!お顔、お姿にお目にかかれるとは!

 その積年の願に掛けるお父様のご奮闘。それにについて彼女から聞いたことがあった。たしかSクラスの方々と御徒町で食事をした折だ。記事によると、I氏はこれまで陳述のため毎年のように渡欧されていたが、今年はたしかイスタンブールにお礼参り?に行かれるとあった。(旧聞です。間違っているかも?)

 と言うように新聞の御陰をたのしむわたくしですが、ここ2~3日来、また留守後の1週間を読み込むのに追われたものです。ざっとでも目を通さないと気分が追われてしまうので・・・・。

 今月、遅ればせな発信になりましたが、ベランダの花と共に元気です。こちらも留守後の手入れが一仕事でしたので・・・・。

 
2016/5月 迎えよう。麗しき5月を 

 
 昨秋わたくしの退職時、お招きくださった人々に(今度はわが家に)と声掛けをしたのみ、ずっと果たさぬまま過ごしていた。この半年すっかり姉の転居手伝いにかまけていたのだ。

 根が不器用なわたくし。事にこの半年ちかく、毎月丸一週間姉のもとで様々な対策処理に専念して帰宅すると当分の間、どうにも自分が取り戻せない。

 疲れと共に思考モードが万事姉基準で残り、わたくしの日常・マイペースに切り替えるのにかなり時間が掛かるのであった。観たい映画・読みさしの本が何であったか等、日常の生活習慣も数日間は遠く感じる。あきらかに過多な姉への思い入れと、わたくしの老いによる衰えである。

 気を付けよう。これでは、姉が居なくなったらわたくしは今度こそ生きてゆけなくなるではないか、、、、。

 大きな問題は前回の訪問で大方片づいた。今月からは訪問間隔を延ばそう。それがお互いに取って、ともに良い方向であろう!そう考えたわたくしは、先ずかねての約束をこの5月から果たし始める事にした。

 昨日はその第2回目、年のはなれた女友達3人をお呼びした。(サガンを離れて以後のお付きあいは友人関係だと思っている)伸びやかな一日は深夜にタクシーを見送って楽しく終えた。

 良い季節なのでベランダで終日語り、食べ、飲み、花々も充分愛でて貰えた。いつもわたくし一人で賞め愛しんでいる、麗しき季節の美しい花々よ。今日は君たちもわたくしも幸せな一日でしたね。

 いまを生きている女性たちとの、一見他愛ないおしゃべりは最高!わたくしも饒舌だった。みなさん聡明な人々なので、生きている日々の雑感の中に年をへだててこその理解、共感を伴うものがある。若しかしたら貴女方もわたくしの年齢に近づいたある日、きっと今のわたくしをより理解してくれるのでしょう。などとも思う。

 さっき、朝食代わりに柏餅二つを摂った。きのうお土産に頂いたのに、わたくしったら自分のメニューにあったデザートを提供して忘れていたのだ。万事相変わらずのマイペースぶりは健在であった。気も利かず、先ず自分が楽しんじゃって!

 あぁ、きのうはみなさんにご迷惑掛けたんじゃないかしら?ごめんなさい。

 わたくしの最大の問題点は、いたってバランスに欠けた人間性にあるとかねて思っている。人生、基本的に大体の事はバランスの取り方で何とかこなせて行けるのに、バランスの悪い性格はどうしようもないみたい。

 バランスの悪い最大欠点を自覚するそのせいか、従来、趣味的な洋服つくりとか、おもてなしの料理のバランスにはとてもこだわってしまうのだ。

 だから予定していたデザートをマイペースでお出しして、折角のご好意を翌日たべている。一人で、、、、。(でも美味しかったです)

 昨日も、間合い・時間の観念は酔いとともにすっかり消え失せていた。(帰宅時間は自己責任で)と前もって告げていた本人がだらだらともてなした結果、シンデレラタイムのご解散を演出しちゃったりして。柏餅をあじわいつつ、やっと気づく苦い反省であった。

 でも毎日が連休であるとも言えるわたくしとしても、この5月を麗しの日々として迎えている。友びとのおかげで。

 良い季節を迎え、わたくし自身のためにもお約束を果たしはじめます。みなさま遊びにきてくださいね。ただし懲りない先輩による持てなしです。時の流れにあまり油断なさらないよう! 真性老婆心より。

 
2016/4月 酔いと覚醒のあわいで 

 
 紙コップに残り液をそそぎつつ、危ない!これは止めた方が良いと思った。大阪からの帰り新幹線車中でのこと。けれど自制心なくそのワインを空けてしまった。結局、、、、、、。
シニア、マンションに移って以来急な衰えを見せ、すっかりわたくしを頼りにしている姉の許からの帰途だった。

 ながい間、姉妹とは言え個人的な経済事情には一切立ち入ることはして来なかった。子供時代から落とし物、無くし物が絶えなかったし、家族の中でもっとも経済観念が欠けていると見られてきたわたくしである。そんなわたくしに相談など持ち込まれる怖れもなかったが、それはわたくしなりの(生き方)でもあったのだ。

 中年も深きに入った頃思ったものだった。(家族ってちいさな国みたいなものだ。だから思想・文化・宗教などそれぞれで良い。たとえ身内でも、いっさい立ち入るべきではない)と。その姿勢は通してきたつもり。

 ところが今回、経済の問題がそれでは済まされなくなった。あんなにしっかりしていた姉が、転居を機に生じた言わば終いの整理に振り回され、お手上げ状態になっている。年金ほか経済に関する整理、進行、のための煩雑な手続きが一向に片付かないのであった。

 未処置のまま、あちこちに拡散された各機関からの書類を認め、不肖このわたくしが処理に乗り出す他なかった。闘病中の妻を抱える弟からも頼まれていたし。

 先月に引き続き、今回の訪問で事務的な手続きはほぼ終了の形を得た。帰るまぎわ、姉から礼のことばと共に謝礼のお小遣いを差し出された。「引っ越しで世話になった」と先月すでに貰っていたし、思い掛けないことなので本当におどろいた。元来、姉はそんな風に気遣いの人では無かったのだから・・・・。

 もっとも、気が利かない人であるのはわが家の欠陥した家風でもあった。とは、これもとぅに中年に入って後、気が利かないわたくしがやっと気づいたことだけれど、、、、、。

 老い、弱くなって姉は感謝をより深く感じ,自分に出来ることで表すことをする人になったようだ。それは嬉しい変化だった。再度勧められ、喜んでおこづかいを受け取ったものだった。

 わたくしは自身に、お金の管理能力が欠けていることを自覚している。だから夫を亡くしてからはささやかな経済を郵便局と信用金庫。いずれも歩いて3分以内の2箇所で賄っている。2冊の通帳とカードの支払い明細書がわたくしの家計簿のすべてだ。シンプルをモットーとしている。それがわたくしの理解範囲、管理能力の範囲なのだと思っているから。

 冒頭にもどり、帰途にあるわたくしは、達成感と共に疲労感を強く感じていた。銀行、証券会社、信託銀行の担当者との電話、面談等。すべて不慣れなこと、本来立ち入りたくない事柄だった。相手も仕事柄、初めのうち当然警戒して来たものだった。不愉快な対応も受け、心がざらついたことも幾度か、、、、。

 その事は乗り出した当初からある程度判っていたこと、覚悟していた事でもあった。それに先方は結局は信頼して好意的に対応してくれた。ワインの中瓶ぜんぶ空けちゃったのは疲れを自らねぎらう意味もあったが、生来できの悪い妹をこんなにも頼る姉の衰えが悲しかったのだ。根底が不安があった。淋しかった。
 
 お酒って好き。自分を取りかこむ状況は何も変わらず、べつに良くなった訳でもなくったって、こころは何とわなし緩くなる。
「酔え、つねに酔っていなければならない」高校以来かぶれていたボードレールはそう唱っていたではないか!

 酔いすぎたようだ、すこし落ち着こう、と浜松あたりで喫煙ルームに入る。[タバコは農業だ]広告の文字が飛び込んできた。えっ???

 が、酔眼に他のちいさな文字は目に入らない。世に疎まれる喫煙者の身としても、このスローガンには矛盾を覚え身構える。覚醒して広告をキチンと読んでみよう。でも止めた。

 覚醒と酩酊のはざまで考えた。この世はすべて矛盾に満ちている。世界はすべて矛盾の上に成り立ち、進行しているではないか!そして酔いの深さを覚えつつ更に思う。

 子どもの頃からわたくしは何となく自覚していたものだ。近年ははっきり、ずーっと好んで少数派に身を置いて生きてきたと思っている。群れから少し離れて生きている者の開放と孤独。これも必然の矛盾にすぎない。

 それにしても覚醒が必要であった。だが同時に酩酊を求めてもいた。(しっかりせねばっ!!)カツを入れて席にもどる。

 自制無き一杯の反応はきつかった。その後ポリ袋に幾度か助けられてしまう。数十年ぶりの失態だったが、深夜とあって人に気づかれず??(そのつもり)ぶじ帰宅し得たのだった。

 昂揚と失墜これもわたくしの本質。何につけ何時も対局を行きつ戻りつしてしまう。中庸の精神は今さらに求めようもない。いい年をしての車中過飲はあれからずっと胃腸の状態をわるくしている。

 けれどさっき姉との電話で聞いたのだ。その後受けたドック入院検査の結果、脳の状態は昨年と変わらなかったよし。面談結果も同様診断であったそう。良かった、良かった。

 1月の転居いらい、あまりにもな衰えに姉も、自身に(認知症)発症を疑っていた。とても怖れていたのだ。だから共に喜び合った。いざ引っ越しとなると、しぶしぶの転居であったし、どうやら多忙や環境変化に適応、対応しかねての反応だったようだ。

 新たな環境を本人も気に入っているのは確か。「これが最良の選択であった」と考えているのは確かだ。それが何よりの頼り「きっと落ち着きを取り戻すことでしょう」と語り合う。

 言えなかったけれど正直、わたくしもその不安と悲しみが胸を占めていたのだ。言い訳になるけれど、あの自宅外での自制無き深酒はそれが根本にあった。

 二人でも一人前に足りなそうな老姉妹の道、はまだ続きそう。ときに酔い、ときに覚醒をもってやり過ごそう。近くに好きな桜の道がある。これから、酩酊と覚醒のあわいに漂うかの、夜におぼろ爛漫の桜を見にゆこう。

 
2016/3月 忌み日つづきの晴れ間で 

 
 3月は、わたくしに取って忌み月と思えるほどに身内の命日が重なっている。 夫・父・母・そして昨年は上の弟まで。だからつい亡き人々との過去を反芻し、うなだれ勝ちになるのだ。

 3.11のあの日、国中が震撼したあの日。罹災地の方々のその後、そして今現在も続く苦しみを思うと、わたくしの事柄など取るに足らないありふれた経過に過ぎない。と、わきまえているのに落ち込みを防ぎえない。

 そんな折、サガンのS講師からごお招きを受けた。4~5年前ご自宅を新築された折薪ストーブを取り付けられたと聞き、うらやましくて見たがったのを覚えていて下さったのだ。桃の節句日、母の命日に数十年ぶり、西国分寺のS氏宅にむかう。

 途中母の供養のつもりで郵便局に寄り「国境なき医師団」へのささやかな送金をすませた。少し心やすらぐ。(そうだ、今年から3月はそれぞれの命日に、頼りにしている「国境なき医師団」に寄金する事にしよう!)

 実はユニセフには30年来、毎月のカード引き落としによるささやかな寄金をしてきた。それを、どこかわたくしは自身への免罪符にしている。その後ろめたさの自覚もあるが・・・・。

 でもそんな下らない自意識過剰なんて問題外、こんな場合大事なのは、実行するか・しないかの結果のみだ。気に掛けつつ今まで果たしていなかった「国境なき医師団」への寄金を今後実行しよう!。改めてそう心に決める。何とはなく心が前に向けそう!電車に乗った。

 薪ストーブ設置をも伴う、S講師のお住まいについてお話しょう。
大きな基礎工事の他はすべて彼の手仕事で完成された由。半年ちかい日数をかけて!!。オリーブグリーンを含んだ床板はE子さんが塗られたとのこと。

 光あふれ、風が通る白いそのお家は、大らかな暖かみに山小屋風な趨きをたたえている。これもお手製のずしりとした大きな座卓に、背もたれ座椅子でお行儀わるく座ると、じつに居心地が好いのであった。

 薪ストーブとお二人。すべてじんわりと暖かく、会話はあちこちに飛んだ。姉の転居による雑事を手伝い、仕切り、一段落を見とどけて帰京したツイ先日。思いがけず生じた姉との摩擦。姉からすぐ謝りを受けてはいたが、未だ心塞がせていたそのゴタゴタまで愚痴ってしまった。親身なお二人の言葉にどれほど慰めを得たことか・・・・。

 考えてみると氏とは約30年におよぶお付き合いなのだ。アトリエに関わっていたおかげでこうして年の離れた友を得ているわたくしの幸せ!。28才の新進気鋭の作家であった彼との最初の出会いは憶えている。他3人の講師との最初の出会いも統べて記憶の中にある。大切な記憶だが、みんなそれぞれが今、前へと歩んでいるのだ。

 厚かましくわたくしは、残ったちらし寿司の持ち帰りをお願いした。子どもみたいだけど、明日この幸せをもう一度自宅で味わいたかったのだ。E夫人は他の手料理等も包んで下さった。それを手に駅まで送られて乗り込んだ電車の中、酔いはさらに心地よく深まる。読むつもりで携帯していた文庫本も開かなかった。現実が心を充たしていた。

 忌み月の3月も大丈夫。2日後の夫の命日にはN子を見舞おう。重い病にある彼女、病と年齢、性格のせいで自覚をもたずに人を振り回している。だから見舞いもとても気力を要するのだ。とっても疲れる。

 でも彼女は、わたくしが不在時に電話を掛けて来た時など、ここぞとばかり妻の悪口を言う夫の相手を引き受け、その美しいアルトで夫を楽しませてくれた事もあった。あの声、会話を楽しんだらしい夫も賞めていたっけ。

 行こう、病院へ。むろん逢えば話しもはずみ、彼女も喜んでくれる、心待ちしているのは確かなのだ。行こうあさって。
そして、姉の雑事はまだまだ終わっていない。手伝わねばならない事も残っている。前を向こう!。

亡くなった大切な人々は、わたくしの想いの中でいまも生きている。残された者が前を向いて生きている姿こそ、亡き大切な人々の悦びと安心になるのだと思って近年を過ごして来た。

 {今現在の足下と、これからの前}いちばん大切なのは、それ!!。 {前を向きましょう。前を}つい先日姉と話し合った言葉を自身にも再確認する。自然に面が立ち上がり前を見た。見慣れた窓からの展望が愛おしい。晴れている。

 
2016/2月 天からのエール 


 昨年一年がかりでの大仕事だった姉の新生活への移転、先月も終わりちかくに実現した。新居にはまだ段ボール箱が幾つも残されているけれど、取りあえずの整理を経てわたくしは一先ず帰京した。ほっとして自分を賞め、さっそく映画館通いにいそしんでいる近頃。

 いまの引っ越し屋さんは、(持参する・残す)と選別をすませていたら、搬出・搬入、その後の整理まですべて行うとのこと。その上での契約を済ませていた。そして実際2日がかりで本当に手厚い仕事をしてくれた。それでもお婆さん二人で引っ越しをコナすのは予想以上に大変だったものだった。フーッ。

 40数年を旧居で姉はすごしていた。高校の教師をしていたが、晩かった結婚前の母との同居。そして義兄が早世したので再開された晩年の母との同居生活が、とりわけて長きに及んだ。

 覚えている。のんきなわたくしは、長い時を経てやっと(お嫁さん達に気を遣わずに日々を過ごす母のしあわせ・妻に気を遣わずに済む弟達のやすらぎ・即ちわたくしの気楽さでもある)に気がついたものだった。[姉の不幸が一族の平安]に繋がっている人生の実情に・・・・。

 結婚を機に退職していたが、夫の逝去後数年して姉は動き出した。志しを共にする人と、当時急激に増えていた中国からの帰国子女に、日本語をおしえる教室を立ち上げたのだ。わたくし達は旧満州で生まれ育った引き揚げ者である。あの頃の中国からの帰国者とその家族にたいする姉のボランティア精神。わたくしにも推測できる。

 猛勉強した姉は自身も講師を勤めていたようだが、主として優秀な中国人留学生を採用して開室されていたらしい。現在は軽費で、様変わりした各国からの帰国者や入国者に日本語を教える場として引きつづき運営されているそう。そして教壇に立った中国の人々は後に大成した方も多く、その師、その友と広くよき交わりも得たようだ。

 こども時代から優等生タイプだった姉。こども時代から怠けものだったわたくしとは全く対照的な面が多かった。30年間におよぶ前記のボランティア仕事についても、みずから語ることはほとんど無かった。母なき後、ぽつぽつと聞き及んだり、思い至ったりした事柄だ。そう、姉は充実した人生を過ごしてきたと言えよう。

 こんなこと書いたら本人は厭がるでしょうがたしか一昨年、長年の実績に対して府から感謝状を受けていた。権威には関心を持たぬ姉だが、まんざらでもないらしい?。それは、古い品だけれど一応額に入れて部屋すみに置かれていて、わたくしもそれを知ったのであった。

 夫を亡くしてまもなく、急かれるようにまずは中国語研修からはじめた姉。公的施設の部屋を借り、人の多く集う教室。たしか5年ほどまえ辞任したと思う会長役は、けっこう大変だったようだ。留守を母に任せ、母は留守番役をちゃんとはたしていた。何十年と・・・・。

 その母が、取りわけいそしんでいたのは庭の手入れだった。季節にプロの手を入れる以外は、100坪ほどの庭を好きなように造って愛でていた。ひまな刻のおおかたを庭しごとで過ごしていたものだ。95才ぐらいまでの日々を。

 木も花もほとんどが母の好み、姉の合意で選ばれていたみたい。おもえば長い母と娘の蜜月、そしてわたくし達家族の平和な年月であった。母のあの長寿と健康は、庭作業と姉の秘書役?のたわものであろう。

 わたくしの回想も止めどなく巡る。こんな歴史もあり、姉の中で庭や家への思い入れは強いのだ。当然であろう。そしてもう売買契約も済まされている。近く、すべてが更地になることも知っているのである。

 この年で人生をリセットするのは誰にとっても辛い。姉妹共におひとりさまで過ごしているが、このわたくしだって、愛するベランダを望む、小さく心地よい居場所を離れることは今、考えられない。

愛しんでいた庭を後にする日が近づくにつれ、姉が沈み行くのがわたくしにもハッキリと見えていた。たぶん、自身の人生の軸を失うような思いにあるのでしょう、、、、、。

 こころの動揺により、姉の管理能力も落ちているようだ。お正月には、家の中のどこかで差し歯をうしない、ふたりして探し回ったが、あんな小さなものむろん見つからない。歯医者さんは大急ぎで間に合わせて下さった。が、大事な日を直前に風邪を引いたりとお医者さん通いも増えていた。

 明日は引っ越し屋さんが来ると言う午後、持ち込み品の選別はまだまだ成されていなかった。あせっていた最中、フト庭を見ると風花が!明るく澄んだブルーの空に舞う無数の雪片!美しい!!。急いで姉に知らせ、リビングの大きな窓辺で共に天を仰いだ。長くここに棲んでこんな光景ははじめて見ると言う姉。

 「お母さんが喜んで下さっている。お姉さんの引っ越しを祝って下さっている」わたくしは言った。そう感じられた。「プレゼントだ」姉は小さくつぶやいた。ともに仕事も忘れ窓辺に立ち尽くす。

 喜びとそしてやはり淋しさも伴うしずかなものがあふれた。にじむ目で、天にうかぶ母の大きな笑顔にむかい呼びかけた。「お母さん、お姉さんも私も大丈夫ですよ。お姉さんには私が付いていますよ」心に大きく繰り返す。

 母の愛しんだ椿は、今年ことさらに彩りふかく、庭に舞う風花はいよいよ美しくしい。晴れた空を東に向け、 まっ白い雲が大きくながれて行く。ちょうどこれから姉の住まう方向へと・・・・・。

 
2016/1月 見よう・聞こう・言おう 


 生来のあまの邪鬼が年頭にやはり頭をもたげる。干支とあって、良く見かける3猿の教えに抗いたいと思うのです。つよく。
 
 「見ざる・聞かざる・言わざる」では、自ら老いよる衰えに拍車を掛けているようなものでないかしら?
小さな周辺、大きな周辺に今起きている実情。それらの良い出来事、くるしい出来事もなるべく多く見聞するように努めよう。 あたかも当然のように、苦しい出来事の方が多いけれど・・・・・。

 それと共に「目、耳に心地よいものを」採り入れよう。この機会も出来るだけ多く持ちたい。あくまでも私的な好みに過ぎないのだけれど、優れて美しいと思われる文芸に出来るだけ多く出会いたいものだ。

 ご老体の心身を維持するにはお手入れが必要。お金が掛かるのも実情。遊び道楽の費用はなるべく惜しまないようにしよう。かなりの中古品になってしまっているご老体だ。ここは割り切り、自己投資の必要経費であることを改めて認識する。

 まだサガンの仕事をしていた昨夏のこと。渋谷で映画を1本観て、次ぎへとハシゴをするべく急ぎ足で向かっていた。時間にゆとりが無く、寸時のコーヒータイムすら取れなかった。開演に遅れまいと灼ける舗道をあせりつつ、ふと、そんな自分がとても滑稽だった。

(こんな年して一生懸命、渋谷の端から端を汗をかきかき、息せき切って歩いちゃって!物好きな、まったくっ!)自分のこと、笑っちゃいました。思わず。

 そのとき心をかすめた思い。(わたくしにとってこれは、遙かな日の平泳ぎで遠泳中の息継ぎみたいな感じ)
ふるさと大連の自宅近くの海水浴場「静が浦、しずがうら」の海の香りもフトただよった。

 おてんばなわたくしだった。あれはたしか小5の夏休み、静が浦から老虎灘(ろうこたん)側への遊泳を成し遂げたものだ。父が廻りにずっと付いていてくれたように思う。

 あの、小さな入り江となっていた海水浴場。いったいどの位の距離であったのか?おそらく数百mでしょう。今は大観光地となり、ロープウエイが繋ぎ1作年夏姉とともに乗ってきた。そして、あのはじめての遠泳?もたしか姉と共にであった。

 話しが、子ども心にすごく嬉しく自慢だった事件に逸れてしまいましたが、あの好きだった平泳ぎで長く海にただよう折の感覚。ぎらつく渋谷であの感覚がよみがえるのを感じたのだった。

 そう、いつの間にか習得していた遠泳中の息継ぎ!時々充分に大きく空気を吸い込んだ、あの感じ!
人生と云う長距離遠泳はなかなに大変。炎天下、とおい日の海と大気が思われた。

 ずっと、芸術に触れることに依って息継ぎをしてきたようだ。だからこそここまで来られた。好奇心の求めるまま、これからも良い息継ぎをしつつ人生を渡り切ろう!たくさん良い大気を取り込もう!!
遊びの言い訳みたいですが、昨夏の自覚である。
 
 と言うわけで今年も、見よう・聞こう・と努めます。良い息継ぎをすると、悪い事象に対する判断や抗生の力がつくように思えるから、、、。
そして余計なおしゃべりは良くないけれど、必要なときにはハッキリと物言う人でありたい。言える人になりたい。と、へそ曲がりの年頭の思いです。