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2024/4月 満開の桜の下で


 入居から1年近く経った、わが部屋での生活。窓ガラス越しに見えるベランダの先の桜並木は今、花盛りである。
こんなに近くで日々お花見ができるのは生涯で初めて。幸運と思い、幸せに感謝しよう。感謝せねば!と自らに言い聞かせつつ過ごしている。

 本当は花を見つめても、桜をめぐるさまざまな追想が老いの孤独をむしろ深めさせたりもするのだけれど。

 たしか5〜6年ほど前に当欄で、引き揚げ者だった戦後に間借りではあったが我が家らしき生活をスタートさせた中目黒時代を偲び、夕べの目黒川でひとり花見をしたことを綴ったのを覚えている。
目黒川流域は当時からお花見名所となっていて多くの人々で溢れていたものだった。

 今年も新聞で、目黒川お花見の賑わいと写真が出ていた。むろん今は出かける気はない。あの時は姉や弟にこの光景を見せたいと思ったものだ。現在よりも公私・天地ともに明るい時代だったのだ、と今にして思う。

 目前の桜・桜の並木。今蘇るのは子供時代の大連、秀月台の庭にあった八重桜の小さな1本の木だ。土地柄が合わなかったのか育ちも悪く、4人の子供と犬がその下を駆け回るせいかほんの少し、毎年ほんの少し花を開かせるのみだった。

 でもその葉で包んだ桜餅を母が作ってくれた嬉しさを覚えている。
その桜餅を持ち近郊の日本軍施設、周水市飛行場の兵隊さん(?或いは士官さんだったかしら?)を訪問したのも覚えている。その兵隊さん達は以前我が家で一日を過ごし、食事をもてなした人々だったことも記憶している。

 “兵隊さん達のおもてなし”は大連市の政策方針で市民に割り当てられた役目であったという事は、つい近年にある本で知った。そうだったのだ。たしか1942年の5月の頃でしょう。思い返すと、、、、。

 周水市飛行場の士官或いは兵隊さん達(たしか2〜3名の方々)は、母が贈った「武運長久」と筆書きされた白い鉢巻を締めておられた。あの方々のその後は・・・・全く知らない・・・・

 今や茫茫たる歳月よ。愚かに、茫茫と生きてきたかに思える長き年月よ。そして今わたくしはテレビによる世界の過酷な現状の映像を直視し得ず、新聞のみは日々数時間丹念に読んでいる。あたかも自身がまだ生きている事実を確認するかのように。

 花よ、桜よ。よき美しき記憶を人々にとどめたまえ。届けたまえ。少しでも一つでも多くの喜びを!

2024/3月 姉を送りて


 先月末、精神科ではあるが医師である弟からの言葉でわたくしと息子はほぼ覚悟をしつつ、兵庫県の姉のもとを訪れた。
そんなわたくし達に姉は、眼差しと言葉にならないことばでたしかに応えてくれたと思う。そう思えた。そして3日間毎日会い、姉は逝った。

 尊厳死協会に属していた本人の希みを思い、弟と共に担当医師と良く話し合い、延命のための手当は一切受けぬ終焉であった。入居施設でのほんとうに柔らかく暖かい介護をうけ、まさに消えゆくように逝った。姉は逝ってしまった。

 コロナ禍の環境激変に対応し得ず、認知症が急激に進行してしまった姉。その姉には秘して済ませたが、わたくしも2020年6月初旬に舌癌の手術を受けた。無事に乗り切ったけれども術後の転移、キイトルーダ治療による快癒。しかし急激な体力低下。そして老人施設への転居等、激動・激変の4年間であった。
わたくしにとっても辛かったこの期間、やはり姉は私の生きる目的であり、支え・そして希望だったのだ。

 旧満州の大連で生まれ育ったわたくし達姉弟である。敗戦から引き揚げまでの混乱と恐れの中で、大連での売り食い生活1年半。その後、姉弟4人ともに初めて土を踏んだ日本での引揚者としての生活も苦しかった。
父はそんな中にあってもプライドを捨てることが出来ない人であった。先祖伝来の銘刀を、戦時中の日本、敗戦後のロシア・中国・いずれの軍の武器供出命令にも従わず、遂には家の地下に埋めてしまったことは以前記した通りである。

 父に入れ替わり、よく寝込んでいた母が戦後強靱な人となった。13才だったわたくしにもその変化ははっきりと目に映った。その母の片腕となったのがわたくしと2才しか違わぬ姉であった。

 敗戦後に大連のデパートで母と姉が商ったショーケース1台。その中は玉石混合であったらしい。わが家の衣類・装飾品と共に父の友人から依頼された大小多くのパールのコレクション。それは相当な逸品で、中国人の商人やロシア士官のマダム達がそれを目当てに来たものだったと数10年のちに姉から聞いた。
ちなみに、引き揚げ時に「お嬢さんたちのお嫁入り時に」とお礼と記念にいただいた立派な数十個のパール。それは弟たちの帽子に母が埋め込んで隠し、乗船前の検査や略奪を無事に逃れ得た。そして帰国後直ちに生活費となったことを見聞し記憶している。

 父の帽子をカットして造花を作り、刺繍で彩り安全ピンをつけて売ったらロシアの女士官達からの人気を得た、との話も姉から数十年後に聞いたものだった。母から聞いた話によると、お洒落だった父は帽子も英国のお気に入りブランドなどで揃えていたらしい。今も残る帽子の一つを、捨てかねてわたくしは保存している。

 1947年3月、両親と姉弟4人の日本での引揚者生活が始まって以来数年間、日本の最も苦しい時期をわたくし達家族も無事乗り越えた。勉強嫌いのわたくしを除き3人が大学に進学できたのは母と姉の懸命な努力があってこそであった。

 9年前に逝った長弟Yも、姉と似て家族思いの責任感を持つ人物だったことに思い至った。青少年の若き日、おそらくは姉の最も良き理解者だったであろうことにやっと気付いたように思う。礼も述べぬまま逝かせたことが今更に悔やまれる。

 子供時代から家の中で一番の困り者はわたくしだった。その自覚はあったが、いまさらに悔いとかなしみが寄せてくる。亡き人々に対して・・・・・・
 
 どこの家庭にも大切な物語、厳しい問題、哀しい思い出、惨めな追想、温かな回想等々があり、それぞれが個々に持っていると思う。歳のせいでしょう、わたくしの姉を思う懐古は限りなく深まり止まりを失いそうになる。

 3年半ほど前に姉が入居していた施設の介護室へ移って以来、同じ施設に入居していた弟のお陰で、わたくしは弟が支えるスマホを通して姉とつながることができた(会話にはならないが明らかにわたくしを認める反応を得ていた)。起伏はあったけれど今年の2月初旬までそれに一喜一憂の年月を過ごした。
昨年11月には息子とともに会いにもゆき、その折も微かな笑みとともに姉が今持つ「言葉」での反応をもらっていた。確かに、、、、。

 先月27日の夕べに姉は逝き、3月3日に送った。花を愛した姉に白百合を主体とした清楚な花いっぱいの家族葬を、施設内の部屋で催した。お香典ほか一切のご好意は辞退させていただいたけれどお世話になった施設からのお花は喜んで頂戴した。
会場も、送り出す棺も姉の好みに合い悦びそうな花々で溢れていた。今も花々の中の姉が瞼に止まっている。

 子供に恵まれなかった姉に幼少時から可愛がられた息子の相談を受け、弟とわたくしが助言しての「お葬式」をきっと姉は気に入ってくれたことでしょう。そう思っている。

 とにかく花に満たされた部屋で、貴重なともびとの方々ともお別れをし、お見送りをいただき姉は旅立ち逝った。
お世話になった施設の支配人初め多くの職員の方々もお別れに来て下さった。
皆様のお陰で姉の最期は安らかでした。姉を心安らかに委ねることができたわたくし達家族も日々、どれほどに感謝していたことでしょう。

 かなしみと共に、もう心身ともに苦しまぬであろう姉を思い安らぎをも見つけている。少しだけ恩返しが出来たように思える。喪失感とともに、大きな役目を終えた感じもある。けれども言い知れぬ淋しさ、追憶が胸そこに漂う。

 ありがとう。ありがとうございました、お姉さん。長い間本当にありがとう。
あとは心臓の不調を抱くターちゃん(弟)を出来るだけ支えますからね。
「一番ダメな喜代ちゃんが一番守って貰ったから出来るだけしっかりしますよ。お姉さん」

追記
姉の棺がお世話になった施設を発った折、広い裏庭の長い通路のサイドに施設職員の方々が立ち見送ってくださっているのに気付き感謝していた。みなさんご多忙なのにと、、、、。
ところが後日息子に知らされた。長い通路が始まる場所にT支配人が立っておられたとのこと。長年の氏の見守りに感謝を捧げていたのはむろんであったが、そこまで支配人の姿勢を全うされるお姿に、改めて深い感謝感動を覚えました。
「長いお見守りありがとうございました」姉に代わり深くお礼申し上げます。

2024/2月 バレンタインの夜に


 以前書いたことだけれどわたくしは16才の高校生時代に、傾倒していた『上田敏訳 ポール・ベルレーヌ詩集』で自身の誕生日がセント・バレンタインデイであることと、その謂れを知った。1948頃でしょう、確か、、、、、

 その後1970年代も遅い頃だったかしら?バレンタインがチョコレートの宣伝合戦とともに華やかに祝われるようになったのは。それまでは親しい友にも語らずひとり胸に温めていた。わたくしのささやかで密かな喜びであったのに、、、、、

 茫茫たるあれからの月日よ。わたくしは今日、転居した施設で初の誕生日を迎えた。心身ともに衰えた身、特に入居前後の頑張りやその後の変動は相当應ているようだ。心に去来するのは自身の明らかな弱り、衰えの自覚である。

 「大切な姉を弟に任せきりにせず、せめて弟の取り継いでくれる電話の中では優しく快活に姉と話し、ほんの僅かでも元気や喜びを持ってもらえるよう支えたい、支えよう!」それが現在もっとも大切なわたくしの願望であり。役割、果たすべき務めだ。そう心定めて日々を過ごしている。

 それにしてもわたくしは世代広く、友に恵まれている。励まされている。それはどんなにか心潤し、支えとなっていることかしら?パリ・セーヌ左岸で個展開催中のY氏が短い帰国中の時間を割いて訪れてくれた。(案内して下さったS村さん、ほんとにありがとう)

 Y氏とは35年ほど以前スペイン・ポルトガルに始まりルーマニア・ブルガリア等、いま思うと随分大胆且つ自由、素敵な旅をしたものだった。危ない思いもしたっけ! その日任せの青年用心棒?つきの旅。ウマが会い、信頼が伴わないとできぬ旅だったと今更にして思う。Yちゃん本当にありがとう。

 そしてY氏同様、息子世代でありながら友であり人生の同志のようなS井・S藤講師も旧知会員と共に先月訪れて下さった。互いに飾り気なく交わす会話は懐古・展開へと弾む。以前の会合のようにワインがドンドン空き(残念ながらわたくしはビールと白ワイン少々のみだったが)、わたくしは入居時に唯一購入したマッサージ付きリクライニングチェアーに寝そべって対談させてもらった。あの時図々しく伸ばしたわたくしの足をそっと撫でさすって下さってたWさん。優しさに潤いました心も・・・・・

 S井・S藤講師とは、久方の会食団欒だった。アトリエ・サガン設立時の志を今も失わずにおられるのが感じ取られて嬉しく、切なく、尊い。設立時の苦労も改めて思い出された。30歳代前半の若き彼らのカッコ良き姿も!! そして今、現在も前に向かって生きる絵描きや会員と過ごした半日は、老いたわたくしが宝物を無造作に手にし楽しんだ貴重な“刻”であった。

 それにしてもやはり疲れたものだった。何一つおもてなし作業もしなかったのに、、、。近年思い知ったことだけれど、残念ながら老いとはただ疲れるものらしい(失笑)

2024/1月 1月の夜に


 明日は着物を着るのだ! 大晦日の夜、そのことを楽しみに寝入った子供時代もあった―― そんな茫茫たる過去を、救いを求めるように追想したりした。
世界の厳しい情勢の中、元日早々日本を襲った荒々しい自然や航空事故の重圧の中で、、、、、

 多忙な中、大晦日に来て2日の夜まで迎春を共に過ごしてくれた息子が帰ると正直、老いたわたくしとしては日々日常を穏やかにやり過ごすのもなかなかな仕事なのであった。自身が恵まれた状況にあることを周辺の全てに謝す思いを、改めて深めながらなのだけれど、、、、、。

 恵まれた平穏。その中で、その上での孤独・寂寥。これは人間の業、いいえこれはわたくしの業、これまでの「生き方」の結果である。そう考え受け止めて過ごしてきた、心穏やかに受け止めるよう努めてもいる。そのつもりでいる、、、、、。

 わたくしは本当に幸運に恵まれている。と日々謝しているのは、姉弟、息子、親戚はむろん年齢もばらばらな親友ほかの友びとの存在だ!! その存在がなかったら、、、、。

 お寺出身の5歳下の貴重な男友達、Sさんは毎日のように修業散策を継続しておられる。小田急沿線にあるお住まいから少し離れた川や丘陵を巡られるのだ。3年ほど前、わたくしも舌がん手術後の回復期にいちど鶴のいた川を丘の麓まで同行したことがある。東京近郊とは思えぬ自然が豊かに保たれていた。

 そのお友達は、巡り歩きの休憩時などにメールを送って下さるのである。彼は6年前がん手術の回復後に始めた千日会峰を一昨年夏に達成! その後も修行の行脚を続けておられる。さまざまに起きる身体の不都合を克服して昨年ローマに至る距離を超え、今はアッピア街道(?)を日々歩いておられる!!! さまざまに起きる悪条件の中で、、、、、。

 わたくしは不勉強と心がけの違いで神仏への頼みを心に保つことができない。寂しいけれど術もなく、やむを得ぬ実情を受け入れている。Sさんはそれを承知で心優しく大らかに日々メールをくださり、それによってわたくしはどれほどに救われたことでしょう!
この数年間を! 今日を!! しかもメールはじつに味わい深き名文なのである。

 さっき大晦日に録画していたNHKの「タイムトラベル・アッピア街道」を観た。ローマのアッピア街道起点地には立った記憶がある。たしか35年ほども前、親しかった亡き画家S氏に引率された5〜6名での旅だった。その中にお友達のSさんもいた。わたくしは画家S氏と共にした2〜3度の個人旅行を経て一人旅へ踏み出したのであった。Sさんも同様であったとのことは、近年知った。

 「タイムトラベル・アッピア街道」はとても良い番組だった。楽しめた。心も和む。すると単純なもので元気もずいぶんと回復するのであった。好きな本・映画・芝居などひとりで楽しめることはたくさんある。無理せず、映像でも良い。いえ多少の無理はしてでももっと街に出よう。貪欲な好奇心を持とう。自らに言い聞かせる1月の夜である。