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2019/11月 ボーダーライン


 先月の12号台風時、終日怯えて過ごしてしまったものだ。初めて経験したスマホによる激しい着音に続く災害情報び警告。そして、たしか3度聞いた区の広報車による避難勧告の放送。

 改めて独りで在ることが身にしみた。さらに小さな地震が起きた時には、まさに震え上がってしまったものだった。元来嵐には強く、地震には異常なほどに弱い気質なのだ。テレビ情報は恐怖心を煽り立てられるから時をおいて見る。

 我にもあらず、ただに人恋しい刻が流れた。1本の電話、メールが無性に嬉しく力づけられる。

 夜も10時を過ぎ、やっとやり過ごしたと思った。さぁ、これから食事を摂り、ワインと安定剤の力を借りてちゃんと眠らねば。

 そこにまたも、バス通りからマイクによる大声の避難勧告!!

 氾濫した多摩川にほど近い二子玉川に住む息子に、たまらず3度目ぐらいの電話を入れる。「そこは大丈夫、水は来ない。自分も5Fだから家に居る。避難はしない方が良い」の言葉に力を得て飲食・多めの服薬で兎も角ベッドに入ったのだった。

 以上が、不在だった9号台風時にベランダの重い木製物置を倒されたばっかりのわたくしの、怯え上がっていた1日である。

 翌日まだ怯えの残るままに目覚めた。(当分はダメな日々を送るでしょう)と覚悟していた。これまでより更にウツウツとした日々を予想していたのであった。
ところが案外にわたくしは元気があった。やる気も少しは存在していた。心身ともに。

 そこでわたくしは知ったのだ。わたくしには未だ、自身のことなら対処する力が残っていたのだということを!
この事は今もわたくしの中でわたくしを支えてくれている。

 近頃ずっと自身の年を感じていた。心身の不調に老いを意識させられ落ち込んでいたのだから・・・・・。

 どうやらわたくしの不調は、姉が原因であったようだ。どんなに勤めても、アルツハイマーに侵された姉の心の裡や、その行動は予測がつかない。わたくしは常に何がしかの不安を抱える状態に、わが身を追い込んでいたのだ。

 姉には「散々調べて入ったそこは何処よりも、そして予想以上に良かった。多くのスタッフに見守られて居るし、何処よりも安心で力強い」と、常々話し、どうやら姉も心から納得してくれている。

 けれども、小さな社交も未だ保っている姉の日常に、どんな想いが心に生じるか?どんな行動を起こしてしまうか?常にその不安をわたくしは抱えこんでしまっていたようだ。姉の認知症が哀れで心配。悲しくてならなかったのだ。やはり。

 「流れに任せています」つい先だって、今も姉を見守ってくださる施設の元主治医に出会った折そう話した。でもそれは強がりで、やはりわたくしは息を潜め様子を窺っていたのだ。毎月丸1週間の訪問時はむろん、共にいない時も不安に捉われていたのだ、、、、。

 台風体験以来、すこし『我を失う』位置から浮かび得たように思っている。昔にしたらとても自由な育ち方をした我が家にあって、子供時代から一番気ままなわたくしだった。家族に心配や負担をかけたわたくしであった。
本来が何事につけ均衡を取るのがとても下手な人間であったのだ。

 あれから(わたくしらしく自分本位に)をことに意識するようにしている。姉との間に意識したラインを引こう。細い細いライン。表裏・上下も見えぬほどの、しかし、張りがあり良くしなうボーダーラインを。

 自分の都合を選び、姉に嘘も吐こう。そして今まで以上に、思いっきり優しく愛情を吐露しよう。自分を語ることが少ない人だったので、それの多くは近年知った事柄だが、人のために尽くし、人材をも育て得た姉の30年以上にわたる社会奉仕を褒めたたえよう。

 昨日の電話でそのことを褒めると、以前褒めたことは忘れているからとても素直に喜んでくれる。嬉しい!

 (幸・不幸 善・悪  虚・実 心・体 強・弱 過去・現在・そして未来)など総て、相対取り混ぜ、紙一重に存在する細い1本のボーダーライン。その線上でわたくしは生きているのだ、と改めて思う。

 これらは日常、細い細いボーダーラインの中で時に上下入れ替わり、危うい均衡を保っている。そう思う。そして、先はわからないけれどまだ続くらしいわたくしの人生に於いて、全ての積は自身にあることを改めて意識する。

 以来、表裏分かちがたいボーダーラインの均衡を保つことをわたくしは心がけて過ごしている。相変わらず、いいえ、これまでより更に虚実取り混ぜた読書や映画にのめり込んでもいる。10月は10本の映画を見てしまった。

 生来のエゴイズムに磨きをかけ、危うい綱渡りを続け得るご老体を保とう!
 呆けの入った脳、矯正しえぬ老眼、乱視、乱れがちな足元に力を得るために遊び続けよう!


2019/10月 天空からの災難


 先般の台風時、わたくしは姉のところに居た。姉とともに居る時は、つい総ての関心が姉に寄り添う状態になってしまうのが現状だ。台風の翌夕、息子から「心配で様子を見に来たらベランダがひどいことになっている」と連絡があった時には驚いたものだ。

 我が家の屋内及び、他家を含めマンションの内外には何の問題も生じていないとのこと。今回の台風は6F角部屋のわがベランダを直撃したのであろう。でも姉との時間は大切だから予定は変えず、3日後に帰宅した。

 がっちりとして格好良かった友人の手製による木造物置やガーデンセットが倒れ、スチール製椅子も1脚折れている。他に飾っていた絵皿や植木鉢他も幾つか壊れ、多くの花々も根こそぎ傷んでいた。

 倒れた物置はテーブル前、わたくしの定位置である窓辺を半ば塞ぎ、覚悟の上とは云え重く落ち込んだ。

 心をとり直し、まず心当たりの工務店に物置撤去他の整理を依頼したのだが、あれから20日あまり、今、目前でやっと新しい物置が置かれつつある。工務店も物置屋さんも台風のせいで多忙だったし、わたくしの依頼も手が込んでいたのである。

 倒れた物置を窓辺に見、居間にはブルーシートが敷かれ、物置内の荷物が山積み。とりあえず、、、、状態が20日以上も続いてしまっていた。それは結構こたえたらしい。ずっと体調は悪かった。

 そんな日々、心に千葉で災厄に逢い続けている人々のことが思われた。その事態を思えば、わたくしのこの災難など取るに足らぬことは確かだ。(こんな時こそ、自衛隊をどうして出動させないのか)素朴な怒りと疑問が湧き上がる。

 気を紛らわすため、いつものように映画・観劇・音楽会・親しい友との会合などに勤しむことにした。しかし眠りは浅く体調は優れない。遊びも常より楽しめず、本を読んでもどこか身が入らない、、、、。もっとも本はやはり見入ったものだが、それだけ眠りも奪われた、、、、。

 のんきなわたくしも気づいたのである。これは明らかにわたくしの老化現象、老いの表れだ。数年前ならコナセタであろう今回の台風禍問題も、姉を抱える今のわたくしには重いのだ。とても応えるのであった。

 夫の不在も今更に心許なく淋しい。素直にわたくしは自身の老いを受け入れることにした。

 いらい意識している。今回の物的事故は少しも人身を傷つける事がなかった。始めから天に感謝していたその事を思うと確かに心は安らいだ。経済的被害をのみ思おう。

 経済的被害は結構受けてしまった。おまけに消費税問題の10月にまで入ってしまったし。あーあ、、、、。

 けれども心を取り直す。老人がお金を使わないのが今の経済を悪くしている大きな要因の一つなのだ。今回わたくしも少し、社会に貢献できた。そう思うことにして、そう思っている(笑)

 あと、数時間で新しいスチール製物置は完成する。新しい物置は下見の上、多くの設置費用をも要した。今後浮上したり倒れたりすることは無いであろう。けれど「絶対」は有りえない。天空は太古からの人間の変容を見つめ、受け入れ続けて来たのだから。

 天空の自然・大宇宙も人類の酷使により老いている。病んでいる。確実に。

 折からの気球サミットで、まっすぐな言葉を放ったスエーデンの少女グレタさん。彼女の強い瞳に大人の一人として打たれ、たじろがされて居る。



2019/9月 晩夏 ワインと映画の独り宴げ


 苦手な夏もほぼ過ぎつつある。すべての窓を全開して夕餉のテーブルへ着くと、心なしか風に覚える、季節の移ろう涼やかな気配。さぁ、まずは冷たいワインを。

 ワインを飲んだとて、周辺の状況が変化するわけではない。好転の気配が兆すわけでもない。けれどお酒が入ると、心潤いおもむろに緩やかになる。すべて「何とかなってゆく」ように思えてくる。

 いい加減なわたくしの人生。夜毎のワインで日々ささやかな開放と回生を得ているのだ。ところが昨夜は戸惑った。もっとも簡便なはずのひねり型キャップ?の開封がままならない。

 年のせいで、かねてわたくしの握力は衰えてきている。息子の来訪時、もてなしの開封に手間取り瓶を手渡しつつ(自分でワインの栓が抜けなくなったら、もうワイン飲む資格はないわね)と言って、少し間を置いた息子と大きく笑いあったことがある。あれは、もう2年ほども前かしら?

 4月末左手首2箇所の小さな首骨折以来、わたくしの握力は更に低下した模様、、、、。
冷たい瓶を、両手で抱え込んだり押さえつけたり、、、。でも何としてもキャップが切れない。ついに諦めて別のワインに移り、そのコルク栓を長年愛用のオープナーで、これは先ず問題なく開けたのである。

 少し詫びしい苦闘のひとときだった。

 さて食事ですが、夫を亡くして以来少食になり、きちんと摂るのはほぼ夕食のみになっている。だから、ひとり食でも・苦手な夏でも・とても億劫な日も・辛うじてなんとか、バランスとか味とかは保ってきているつもり。永年の習慣を守り必ず5~6品目は揃える。充分に時間を取ろう。取ってもいる。大げさだけれど、開放と回生の時間なのだから・・・・・。

 昨夜も独り宴たげを始め、録画していたNHKプレミアムの「スティング」をつけた。

 名作とされる1973年のこの映画、昔テレビで見たつもりだった。でもそれは記憶違いで、どうも見たのは予告編か何かの数シーンだったらしい。さすがよく出来ていてわたくしは瞬く間に引き込まれる。

 それからの2時間。ワインも伴う晩夏8月末日の夕食は、見事なエンタメ映画に振り廻されてしまうことになった。楽しくも実に多忙に五感を研ぎ、アタマを働かせねばならぬ時間となってしまったのである。時代設定は1937年、シカゴの一流?詐欺師や賭博師対・大物ギャングや、それと馴れ合う警察との対決物語。騙し合うその成り行きに引き込まれっぱなし!

 彼らの悪知恵のハタラキは実に目まぐるしい!トリックの応酬にアタマも目も混乱しそう!!大多忙に混乱する??!!

 名前・顔・言葉・場所を追わないとストーリーの展開について行けないし、面白みも味わえない。飲むのも食べるのもこなしつつ、アタマもフルに働かす懸命な2時間だった。そして、若き日のレッドフォードももちろん素敵だが、ポール・ニューマン、やっぱりとても良い。あのころ素敵に渋くなりつつある。大満足の小さな夕餉。

 酔いも伴う我がゆるい老脳を確かめたくなり、ワインを片手更に夜更けて「ステイング」を検索した。手の込んだストーリーを確認すると、それなりに追い得ていたようだ。嬉しい。面白い。ついでにご贔屓ポール・ニューマンも追う。それも楽しかった。

 多分、更に惚けてしまったら、こんな日常の遊びもほぼ失うのであろう。出来るだけ先延ばしにしたい。これからも映画など出来るだけ出かけて楽しもう。

 ここまで書き、フト、唐突に激しく心を揺さぶられた。そう、明日、いいえすでに今日である。20年前の今日、1999年9月1日に絵画教室アトリエ・サガンは誕生したのであった。志しを確認しあい、S井・S村・S藤・N村の諸氏と共に立ち上げたのである。

 あの夏の、大きな苦闘・激動の日々よ!
 しかし「わが人生に悔いなし」 瞬時と云えど確かにそう思えるものが今もある。

 明日から開かれる恒例上野での主体展。同展の幹部でもあるS藤講師の発表の場である。今を生きている彼の意欲である作品と明日、対面しよう!

 他にも旧知の親しいサガン会員、数名が出品している。みんな年が離れているけれど長く知る友だ。今、現在を現役で生きる彼、彼女らの表現・発表にも明日はじっくりと対面しよう。彼らの歩みを観、彼女らの風を受けよう!

 良い刺激を受け、出来得る限り意識ある野次馬であり続けよう!!
改めて深く思う晩夏8月も最終日。月をまたぐに至る、長〜い独り宴げだった。


2019/8月 ベッド下の賜りもの


 20年近く使ってきた小型スーツケース。先月姉の許に着いた時、遂にファスナーが壊れてしまった。

 このスーツケース、フエンディのローマ店で購入したものだ。あれは、初めて10数日に及ぶ単独の長旅にトライした、イタリヤ巡りの折だった。実はずいぶん前からわたくしはフエンディが好き。さりげいオシャレ感が好ましく、こだわってきた愛用ブランドだ。けっこう多種にわたり使ってきた。

 久しぶりに思い出された、ローマであの時一緒に求めたザック型バックとの別れ話。

 あれはロサンゼルスへの旅、例によって独りだった。現地主催の『グランドキャニオンへ4人乗り小型飛行機による観光』に参加した時のことだ。ロス郊外の、本当に小さな小さな空港から立ち、グランドキャニオンの上空回遊の後、数時間自由散策。再び小型飛行機で帰航といった半日スケジュールであった。

 今まで見ることの無かった、圧倒的な自然。想像を絶する大いなるものが、激しく切り立つ岩壁や天地に満ちていた。荒寥と続く断崖絶壁の渓谷。そこに今も住む少数の人々。

 かってこの地に住んでいた彼らの先祖たち、すべての生き物達えの想像。機中を含め、強烈な半日の体験は今も記憶に深い。

 グランドキャニオンを展望する観光地では、そこここに「MISSING」の掲示があり、その数のおびただしさに驚かされた。

 人は、これほどに激しく厳しい(大いなる自然)を前にすると、畏敬とともに無力感や空虚、恐怖に囚われるのではないか? あるいは、自身を捉えがたくなってしまうのであろうか? あるいは、己が内の、かねての空虚が支え切れなくなるのであろうか? あるいは、この大いなるものに己が身を消失させたいと求めてしまうのであろうか? あるいは、あらかじめ自己消失を求めて訪れ、果てたのであろうか? etcわたくしの中で今も残り、忘れえぬ問いである。

 観光を終え、ミニ、ミニ空港に帰航したがしばらくの間、頭も胸も耳も相当に辛かった。小型飛行機での出・着時、身体五感が受ける刺激は大変な負担であったものだ。帰着時には殊にそれが激しかった。

 着地後先ずトイレに駆け込み激しく吐いた後、待合室のベンチにたどり着き頭を抱えて座りこんだ。やや立ち直ると、出立時に見知っていたコーナーに行き、セルフサービスでコーヒーを飲んだ。やっと落ち着きを取り戻したように思われた頃、迎えに来た主催「HIS」のバスで市中心地に向かったのである。

 日本人も多いバスの車中でホッとするとともに、ふと気づいた。わたくしは手ぶら、我が愛しのフェンディをは傍にない。人けの少なかった小空港の待合室、多分あのベンチでは傍に置いていたはずだけれど、、、、?着地時のショック・疲労が、お馴染み「HIS」バスの迎えに安心のあまり、フラフラと手ぶらでバスに乗り込んでしまったらしい???

 お財布他の貴重品は身に着けたミポシェットに持っていたから、緊迫した問題は生じなかった。が、何かと大変だったっけ!あの時の事後処理も!!

 したがって、お気に入りの一つだった「あれ」を使用したのは、ほんの1年そこそこぐらい。HISの人が、すぐにミニ空港へ問い合わせの電話を入れてくれたが、あの厳しいロスでモチロン有るわけなかった。

 さて、この長年大活躍してくれた愛用のスーツケース。専門店に修理に出せば、費用は別としてまだまだ使えそう。でもここ3年半、ほぼ毎月の大阪行きに利用してきた。体のことを考え、今どきの軽量4輪タイプに乗り換えるのが適切であろう。少しの迷いののち、わたくしはそう決めた。

 でも捨てられない。この際終活なんてどうでもいい。綺麗に拭きあげてベッドの下、何やら思い出の品を押し込んで収納しているンボール箱と取り替えよう!そうしよう!
わたくしはベッド下のダンボール箱を引っ張り出した。中身は取捨をしてスーツケースに詰めようと思ったのである。

 わがのらりくらりの終活、成功したとは言えない。確かにダンボール箱はフェンディと入れ替わった。しかし中身はほぼ変わらない。おまけにそれらに見入ってしまう大きな時間を費やしたものである。多聞他見するデキゴトだ。

 でも懲りないわたくし。悔いはない。収納品に心温まり、元気すら得たように思っている。

 それらは、1970年代から90年代にかけての演劇・映画・音楽会・展覧会のパンフレットであった。それと何故かカミュ、安部公房など4冊の文庫本。存在を総て忘れさっていたそれらの山。

 ここに無い70年代以前のパンフ類。多分それらは大掛かりなリホームをした92年頃、天井裏に塗り込まれてしまったのではないかしら?例によってのドジで、居住空間矮小問題に対応した天井裏収納庫の存在をすっかりと忘れ去っていたのである。その中に、あの4~5才の息子のデッサンもあるのではないか?

 50年ほど昔の、東横線改札口前渋谷の小広場。美大生らしき青年が肖像デッサン画のバイトをしていた。なぜか心惹かれて依頼したら、思いがけぬ真剣さで確か小一時間ほどもかけて一心に描いてくれたっけ!彼に応えてか、負けぬほどに真剣な顔をして静止していた幼い息子。

 大切にしていたあまり失ってしまった、デッサン画の中の顔。幼児の一生懸命な眼差しの記憶が蘇る。

 老いの回想はキリなく続きそうだ。いい加減にしよう。古いパンフの山を前に、ともかくわたくしは何かしら宝ものを見た感じがしたものだ。ここ15年ほどは滅多にパンフも買わないし。

 老いの自覚として、文学をはじめすべての芸術から受ける感動は、その時その場で享受し、記憶に受け止めよう。心に残り、止まるもので良しとしよう。と、考えるようになって居た。老いに伴う記憶力の衰えを受け止めた上での考えである。だから読み終えた本すらも、多く処分してきた。わたくしなりの終活の心構えだった。

 わが遊びの系列、経歴であるパンフの山。それらに、いま在るわたくしは育まれて来たのだ。抱え込み、のしかかる生き辛さを紛らわせ、抑えるとともに、発散、妄想し、発想の転換による高揚をも得て生きてきたのである。

 すべての芸術に、わたくしは改めて深く思いを捧げた。

 そう、かねての信条『遊びをせんとや生まれけん』に、これからもいそしもう。相変わらず運動の一つもしていないけれど、長きにわたる人生を遊ぶため、体力を維持する努力を少しは心がけよう。

 渋谷の端から端。結構な距離になるミニシアターでの映画ハシゴの折も、タクシーはダメ。必ず徒歩で移動しよう!!そうせねばならない。などと・・・・(笑)



2019/7月 死んだ夢を見た


 月例と成っている姉を見舞う1週間から帰宅して、もう1週間になる。

 認知症になっているが、今のところ幸い姉の人柄に崩壊は見受けない。けれど心身、脳の衰えに常に不安を抱えているようだ。眠りから覚めた時など、姉は自身の年齢を忘れている。だからことさらに衰えを感じ、歩く力など全く持たぬほど弱りきったかに思えるらしい。不安、不調をしばしば訴える。

 そんな折、わたくしはよく我々の年齢を問い、答え(年齢的に不調は当たり前、ほとんどの人が不調や問題を抱えている。わたくし達は父母から良い体をもらっている。昨日の晩ご飯も下のレストランで全部美味しく食べた得た。だからよほどましな恵まれた状態である。そのことに感謝し、良い体をダメにして寝たきりにならぬよう、ちょっと頑張りましょう)など良い事のみを話す。

 さらに、毎月会えるわたくし達が幸せであること。わたくしも姉の許へ行く体力を維持するために少し頑張っている。弟もわたくしも何時も姉を思っている。今までの経験上わたくしは必ず姉の最後には付き添いますよ。わたくし達は幸せですよ。だから「お姉さんも少し頑張って、下のレストランまでご飯を食べに行ってくださいね」等々照れずに思いを伝える。

 時間をかけ、思い出やジョークも交え話すと大抵はそれで落ち着く。で、動き出すと食事は完食し、知人との交流は違和感も少なく、会話も楽しんでいるようである。(もちろん事情を知らせている数少ない方との、深いお気持ちを受けてこその交流であるが)

 夕食後館内散策の後、図書室で新聞を読むのは欠かせぬ行事となっている。(数ヶ月前、読み切れないので夕刊は中止している)付き添うわたくしが疲れて「もう帰りましょう」と言っても「まだ、読み終えていない」と言い張り、9時を過ぎても読みふける。

 新聞に対するこのこだわりは、父伝来である。朝刊は姉のバックの中でまだ、 読まれぬままなのに、、、、、、。

 心安んじて寝入る事はできない姉と過ごすまる1週間だが、前訪問時朝方に見た夢、とてもはっきりとした夢を見た。それを話したい。

 短い草木と茶色の岩肌のゆるい山道をわたくしは歩いていた。とても疲れ、弱りきっていて、少しずつやっと歩を進める。同じ道をたどる人々がいる。そのうち連れができている。息子ほども年の離れた親しい人だ。その連れに、わたくしは引き合わせたい人がいるようだ。

 疲労は深まり、歩みはさらに苦しくなる。よろよろと行く。そのうち、引き合わせたい人がふらりと現れた。2人は歩み寄り、話し合いつつ緩やかな山道を登り行く。わたくしに彼らと並び歩む力はなく、少しの間彼らの後を行く。

 その後ろ姿はずいぶん昔、青年期の終わり、中年に差し掛かる頃の彼らであった。

 青年期、彼ら2人の交流は深かったと聞き知っていた。ともに強い個性の持ち主である。それだけに、社会人として職場で生じたある問題を機にしてのわだかまりは、決して消えることは無かった。そのいきさつをわたくしはすぐそばで見聞する立場にいた。

 その1方の、殊に烈しい性格による大きな誤解、曲解、誤認も伴って破綻した事情を知っていたのである。あの頃、手をこまねいて見守るほか術は無かった。

 彼らは去った。彼らが和解するとは思えない。でも顔は穏やかに向き合わせ、何か話し合いつつ歩んでゆく。わたくしにもう、ついて行く力はない。へたり込み、静かに丘を行く2人の後ろ姿を見送る。

 行く手の左方に大きな四角い建物があり、人々が向かっている。わたくしにはもう、よろよろと倒れそうになりつつ歩む力しかない。身にまとうのは着物風木綿の、羽織りもの1枚。粗末で汚れたその胸元を少し整える。力を振り絞り、半ば這うようにたどり着く。

 その建物はどこか外国の市庁舎のようだった。広場の群衆は知らない人ばっかり。言葉も聞き取れない。行き先を間違えたようである。対する逆方向の彼方に見える地がわたくしの行くところらしい。そこに行けば知人もいるらしい。建物も朧に見えている。わたくしはそちらに向かう。

 でももう全く力が出ない。苦しい。所どころ緑の小さな雑木の茂みのある、赤茶けた山道をわたくしは喘ぎつつ這い登る。もう、這うことしかできない。息を継ぐのも苦しい。荒れ山に粗末な木冊のある入り口までやっとたどり着くと、ボロ布みたいな白シャツを着た大きな男が立っていて、圏内に入るのを阻止された。

 棒か銃を持っていた。

 その敷地にわたくしを知る人々がいるのを、番人風その男に知らせる。電話番号か住所を思いだして頼んだ。古い古い、縁のあったあの人々はわたくしを思いだし、認めてくれるであろうか?這ったまま喘ぎ、待つ。

 息は更に苦しく意識が途切れがちになる。ここで死ぬのであろうか?姉を置いて行くことになる。姉の顔がよぎる。
息子の顔も浮かんだ。あぁFはわたくしの死を後で知ることになるのだ、と思う。

 男が言った。わたくしはその地に在る人々に認められたようだ。認証を求めた、古い古い昔の絵画教室関係の人々がわたくしを承認したらしい。先にある居住地域に入るのを認められた。

 しかしわたくしの息は絶え絶えだった。苦しい。だんだんに意識が途切れる、遠ざかる。息が吸えない。苦しい。これで次の呼吸が続かなかったら、つづき得なかったらそれは自身が終わる時、死ぬときなのだと思う。

 そして、最後一息をつきそのあと、息は続かない。わたくしは死んだ。まさに死んだと自認した瞬間に、わたくしは目覚めた。
 
 大きな疲労が全身を襲っていた。朝の9時だった。もう10日ほども経つのにこうして鮮やかに思い出される夢である。

 以来どこか少しだけだけれど、肚が座ったように思える。夢の中だけれど、ジタバタした思いは起きなかった。なぜか弟は浮かばなかった。でも姉と息子との別れは心で告げ、受け入れていた。抵抗の思いは起きなかった。自然と受け入れ得た。

 例によって都合の良い解釈で、夢とは云え穏やかに死を受け入れ得た。そのことはわたくしに少し元気を与えてくれる。さらに後に思うと、あの緑少なく、茶っぽい山道。故郷・大連の丘陵にとても似ているのであった。


2019/6月 先月に続き、ドジ話ですが、、、


 4月末、深夜の思わぬ事故により、フランス行きを止めるに至ったドジ話の続きです。
 
 体と心の痛みに沈んでいたさ中、希少なボーイフレンドである(S氏)からメールが来た。共通の友人であるパリ在住の画家に送ったメールが不通であったからと、転送されたそのメール。一読して大きく失笑してしまわざるを得なかった。ただに笑う他なかった。了承を頂き公開します。

 山野辺さんご無沙汰です。
[先日おっちょこちょいの高橋さんから電話がありまして、12日からパリへ行くというのです。中略
ULLUMAN の青春という詩にあるように、彼女は常に心の情熱を失わない人ですから、老いることがありません。ただ少し、猪突猛進的なところがあり、ケガをしないかと気になります。そういう僕自身もう老体で、人の事は言えないのですが。

高橋さんの事宜しくお願い致します。  鶴川の認知症老人]

 時すでに遅し。ご忠告も間に合わなかった傷心の身としては、謹慎のていを装わねばならないのは解っている。けれど、自嘲を込めて大きくオカシイ。そしてほぼ40年来の畏友が、わたくしをこのように観ていたとの発見!これもオカシク少し悲しい。

 おっちょこちょいで猪突猛進的、ロマンティスト。あんまりだ!
いかにわたくしが暢気とはいえ、その傾向への自覚・自戒も持っていたつもりだった。でも、しかし、この落差は大きい!

 わたくしに取って近年の問題点は(生来のボケと、年齢的ボケ、認知症によるボケの区別、判断が自他共に下し得ないのではないか?)であった。これは、やや本気で心配してもいたのである。信愛するS氏の予想を超えるお言葉。それはヒドく身にしみたものだった。しかし自嘲にしろ、笑い飛ばしは元気の素ともなったものだ。

 先月、未だサポーターでの腕つり状態の時期にS氏と食事を共にした。前記、Y氏に宛てたメール中の、わたくしへの見解につき「ULLUMANの例その他、自分が思っていた範囲を超える見解である」と、イタイタシクも?抗議した。ところがさらに酷い答えが戻ってきたのであった。

 いわく、『かねて高橋さんはドン・キホーテだと思っている』と。
改めてガックリし、以来それはこびり付いている、、、、、。

 好きであった、好きである。ドン・キホーテは。本・舞台・そしてルオーの絵の中の彼にも強く惹かれたものだ。

 すでに20年以上も昔のこと、在パリの画家Y氏と友人の3人連れで、オーステルリッツ駅発の夜行寝台車(ミロ号)でスペインに行ったことがある。気ままに巡ったがあの時、ラ マンチャに残る風車の群れをも見にいったのはやはり、憂い顔の騎士、彼の物語に惹かれてであろう。

 いずれにしてもドン・キホーテはわたくしにとって、どこか常に痛みを伴う存在であった。どうやらわたくしは自身が思い、自戒していたより更に重症な天然ボケ症らしい。
 
 身を守る盾もなく、翳すべき太刀も携えず、むろん付き人は従えず、何に乗り、いずこに向かいわたくしは突進せねばならないのか!突進しているのか!!ドルシネア姫に変わる、わたくしの掲ぐる幻の姫とは??もう悲しくなる(苦笑 大きい)

 親しい友にこの話を愚痴ってみたが、大きな否定は得ず、ともに大きく失笑していたものだった。後で思うと、あれにはかなりの同感度が見られた。確かに、、、。

 以来S氏からのメールは、女ドンキさん宛てで来ている。手の怪我は医師にも褒められるほどの回復ぶりだが、この汚名XXX???は甘んじて受け、自戒・自重を深めねばならぬようだ。

 わが長き老後、したがって諸事多難・多忙である。(失笑)


2019/5月 連休、日々 踏んだり・蹴ったり!


 快晴のこどもの日である。改元を利用する現政府の思惑を厭いつつも、我がベランダの花々を愛おしみ、デッキチェアーに身を伸ばしてこの空を讃えている。と、言いたいのだけれど実は、へとへとの老身をいたわり、身を横たえているのである。

 例によっての夜行性で先月22日深夜、ベランダの草木を手入れして部屋に入った際、置いていた革のトートバッグに片足を乗せ見ごとに滑ってしまったのだった。その瞬間、支えを求めた左手首を窓辺のサンスペリアの鉢を乗せていた木彫り椅子の脚に、したたかに打ちつけてしまった。

 手首はみるみる内に腫れてきた。(痛い・とても!)応急手当を済ませるとネット検索をする。もしかしたら骨折しているかも知れないし、いま通っている徒歩2分の接骨院に行くのは不適切なようだ。近隣の整形外科医も調べ終え、夜半3時ごろ、とにかく傷心の身を横たえた。

 翌午後、ロキソニン服薬の効果かしら?ひどい痛みはなかったが徒歩5~6分予定の整形外科医院までゆっくり歩いて行く。と、なんてこと、午後は休診、あーぁ。

 クタクタの身を、我が家間近の「O接骨院」に運んだ。実は近年、首・肩の痛みや疲労感の強い時にお世話になっている。怪我の当日も午後首の手当を受けていたのである。

 それからは適切、順調にことが運んだ。まず、X線検査で手首の2か所小さな骨折が判明。包帯・ギブス等の手当を受ける。整形外科医を紹介され、希望した医院にtelして状況説明の上、予約も取ってもらえた。

 それのみでも感謝していたら、その内なんと「もう、時間もあまり無いし、自分もこの医師にはまだ会っていないから挨拶がてら・・・」と車を出してくださったのである。

 訪れた整形外科医の診断も同様であった。連休明けの再診を約した後は、再びO接骨師に車で我が家まで送られた。以来13日、連休中も開いている日には診てもらい電気と手による手当、マッサージを受けている。

 以上がわたくしの怪我顛末だが、O接骨師夫妻にはどれほど助けられたことか!!奥さんも『休む前に体を拭いたり、パジャマ着替えなどをしにいらっしゃい」と声をかけてくださったのであった。

 なんとも心細い日々だったけれ、ご夫妻の暖かさにどれほど救われたことでしょう!どれほどに心強かったことか!忘れえぬ温もりである。さらにO師は専門に関連して精神医療や保険関連等の受講等を今も続けている勉強家だ。近くにこんな方が居られるのをかねて喜んでいたが今回は改めて、どんなにも頼もしかったことか!

 接骨院を頼りになんとか夢中で過ごし得たその後の日々。痛み止め薬もあまり利用することなく、現在は体もずいぶんと楽になった。そして告白します。実はあの辛い最中、怪我の3日後には予定を決行し、なんと赤坂まで一人で出て芝居(良い子はみんなご褒美がもらえる)を観てきたのである。

 気晴らしのための観劇。いかに好きとは云え、あの日はもうクッタクタであった。オーケストラ団員30名が同時出演している画期的な芝居であったが、残念ながらわたくしにはあまり良い出来とは思えなかった。

 しかし、不眠症気味のわたくしもあの数日間は死んだようによく眠ったよく眠ることが出来たものだった。眠ることで回復に向かったように思える。

 わたくしは本来極端にバランスの悪い人間だ。それはとても自覚しているつもり。「大胆と怯懦 」これも常にわたくしの中に同居していて揺れ幅は広い。こんな事故を起こしたのも姉への後ろめたさ、自由気ままさへの奔放な欲求。それがひしめいていたのだ。常に・・・・。  

 それは、常ならぬ首の痛みにすでに現れていた。だのにわたくしは3月に心定めたことを決行しようとしていたのである。5月12日から17日間に及ぶフランスへのひとり旅を。

 4月初旬、ビジネスクラスで航空券・ホテルの予約も済ませた。

 そしてその旅には思いがけぬ同行者が現れてもいた。旧友とも思うアトリエの会員(Sさん)だ。スチュワーデス時代の彼女とは20年ほど昔パリで落ち合い、パリ在住の画家(Yさん)とストラスブール等への旅を共にしたっけ。楽しくとても良い思い出がある。

 更にドジ話の思い出も。

 そう、あれは電子チケットの始まりの頃だった。後続する帰国用チケットを、ローマの空港で手渡されぬままパリに入っていたわたくしの不安は大きかった。なにしろ初めての電子チケットだったから・・・・。

 その不安を、Sさんはてきぱきと解決してくださった。あれもひとり旅を始めていたわたくしの、感謝に満ちた忘れえぬ思い出である。成り行きで旅の計画を話したらその彼女が急遽、万難を処置して旅の始まり5~6日間を同行して下さることになってもいる。

 精神科医でもある弟とは相談していた。(認知症のある今の姉に旅程を告げると、パニックや不安を抱えさせるであろう。5月初めの訪問時にも告げることなく、発つた方が良い)結論は出ていた。

 なにしろ近年の姉は幼子のように、ひたすらわたくしを頼りにしている。わたくしの不在中は弟と息子がまめに姉に電話をする、との協力も得ていたのであった。後は決行のみ!!と、自らを追い込んでいた折のこの結末。

 数日前、航空券等はキャンセルをした。被害結果は物心共に重なてしまった(苦笑)

 ここまで記し、もう本当にくたびれてしまいました。話し終えたいのですが、ドジな高橋のドジ話、あまりに不景気ですし、今月はここで小休止させていただきたい。

 それから、狙い撃ちのタイミングできのう届いたメール。貴重なボーイ・フレンドにして30年来の畏友(Sさん)からだけれど、これには全く降参。懲りないわたくしは自嘲を込めつつも大きく笑ってしまう。おかしくって笑わずにおれない!

 来月紹介させていただきますね。


2019/4月 お花見そして回想


 今年は目黒川側沿いの夜桜を見よう!そう決めていたので先日、銀座で映画を観ての帰徒東横線中目黒駅に降りた。駅からすでに大変な人出である。そう云えば3~4年前に来た時もこんなふうだった。

 にぎわいに押されるように川辺に向かう。珍しくスマホのカメラをぎごちなく扱いつつ・・・・。

 花と人とに溢れる川岸は前後ずーっと先まで赤ぼんぼりが灯っている。風情と言ったら、人々の賑わいが醸す情感かしら? 6~7部咲きの桜は、ぼんぼりの紅色と店々の灯りでみんな紅がほどこされている。

 逆方向に山手通りを目黒に向かうと、今少しは静かなお花見ができるのでしょう、とも思うが敢えてわたくしは雑踏の中を行き来した。

 昔、川沿いに至る駅裏の界隈は、飲み屋さんが並び、少しわびしく、怪しげな場所に見えていた。古い映画館で、父と古いドラキュラ映画を見たっけ!

 そう、わたくしにとって中目黒界隈は、第2のふるさとと思える東京での出立地なのであった。歩きながら改めてそう思い、改めて写真に収める。姉や弟に今の中目黒を見てもらおう。姉の衰えた記憶にもハッパが掛かるかしら?

 ふるさと大連から引き揚げ、広島在住を経て父は友人の好意により、東京の彼の会社に迎えられたのであった。父としては畑違いな輸入映画配給会社だった。今となってふしぎな縁に思える。

 お花見は懐旧のそぞろ歩きに変わり、わたくしは60年以上前の我が家への道をたどる。駒沢通りを目黒区総合庁舎方向へと・・・・・・

 山手通りと駒沢通りがクロスする右手の角に大きな高層ビルがある。1Fには巨大なお酒屋さん。きっと、大昔の角のお酒屋さんに違いないと思っている。

 4年